
40代の未亡人 志賀伸子(月丘夢路)は 利己的な義理の息子・娘と三人暮らしだが、亡夫の遺産生活の為 苦労の末に 一家崩壊へと突き進む過程を 描いたホームドラマです。
学生時代 志賀家で世話になった 小松鉄太郎(宇野重吉)は 銃器会社を退職し、立川基地界隈を歩いた後 新宿のキャバレーへ向かう時 セットの電車内シーンがあります。

伸子は 義理の娘 志賀多美子(北原三枝)と 出入りしている医師の 伊原章之介(三國連太郎)の 結婚を望んでいますが、当人は 伊原と伸子の仲を怪しんで 乗り気になれません。
ある日 京都に残っている 志賀家の土地売却の件で 多美子が現地へ向かう時、多美子は途中から 伊原に「話があるので横浜まで送ってほしい」と電話して 品川から列車に乗り合わせます。
白いカバーが掛かった 並ロらしき車内で 二人は向かい合って座っていますが、

多美子は一向に 話をしないので 伊原は小松から聞いた 会社を辞めた話しをしました。

やがて 列車が横浜駅へ 到着しそうになったので 伊原は立ち上がって「それじゃあ」と言いながら 多美子の手を取り 別れの握手すると、多美子は 手を引き寄せて 離しませんでした。

一方小松は 四日市の海軍燃料廠跡・白浜三段壁・奈良・京都を 旅する場面に続き、EF58形電機に牽かれた 特別急行列車はと号の 走行シーンが映ります。


続いて 食堂車内へ小松が入って来て

近くの席に座り ウエイトレスに「ジュース」と注文すると、先に向かいの席に 座っていた多美子が気付いて 小松に声を掛けました。

旅先での偶然に、普段と違って小松も饒舌です。

その後 二等車席に二人が並んで座り、多美子は寝込んで 小松の肩にもたれ込んでいます。小松は膝に乗っている 多美子の手を、そっと持ち上げて お腹の上に置きました。

すると多美子は 眠りから覚めて「今何処」と小松に聞くと、「やがて大垣」と答えます。 東京へは「あと6時間程」と話すと、「長いわね~」と 気だるけな返事をする 多美子でした。

やがて 夜の有楽町駅界隈を走る はと号らしきの姿が映り、車内では 東京駅到着前から 網棚の荷物を降ろして デッキの方へ移動する 客の姿があります。

小松が「渋谷まで送りましょうか」と言うと「もう大丈夫」と多美子は断り、東京駅構内から 伊原の家に電話します が不在と聞いて落胆しています。
PS.
車内シーンは 全てセット撮影で 2枚目からの 東海道本線車内の画像は、伊原と多美子が向かい合って座るシーンですが スクリーン・プロセスの出来が少々・・・ですね。
特別急行列車はと号の 走行シーンは素晴らしく、先頭部分のヘッドマークも ハッキリと映っています。
ロケ地は不明ですが 1955年夏頃の撮影だとすると 上りの米原から大垣手前は電化されていますから、残る米原~京都の未電化区間を C62形蒸機に牽かれた姿を 撮影してほしかったです。
EF58形電機の次位は スハニ35形{半車荷物車・半車三等車}でしょうか、かなりの高速で 通り過ぎる姿に ピントを合わせ続けているのは 流石 峰カメラマンですね。
当時の4レ 特別急行列車はと号は 大阪発12:30で、京都・米原(SL⇒EL)・名古屋・豊橋・静岡・熱海・横浜に停車して 20:30東京到着のダイヤでした。
一等展望車・二等車5輌・食堂車・三等車4輌(ハニ1輌含む)の11輌編成と、二等車(現在のグリーン車)が 一番多いのに 乗車率82%と 盛況でした。(1955年7月上旬平均値)
小松は 四日市から 白浜へ向かいましたが 当時の紀勢線は、紀勢東線の尾鷲 ~ 紀勢西線の 紀伊木本(現:熊野市)34.3㎞が 未開通でした。
あえて 当時の紀伊半島を 南下する経路で 妄想すると、四日市 6:59 ―(203レ急行伊勢)― 8:02 松阪 8:23 ―(15レ)― 11:21 尾鷲 12:30 ―(国鉄バス紀南線)― 15:15 紀伊木本 16:25 ―(145レ)― 18:49 串本 19:06 ―(171レ)― 21:22 白浜口
普通の人なら四日市6:29 ―(201レ急行大和)― 9:00 天王寺 9:30 ―(106レ)― 10:41 東和歌山 10:45 ―(6レ準急熊野)― 13:02 白浜口 ですが、作中で あちこち ぶらぶら旅した 小松ですから 上記の経路かもしれませんね。
本作は 盛夏時期に 撮影されていますが この頃日活は 他社に先駆けて 撮影所に 冷房設備を導入したので、食堂車や二等車場面を始め 志賀家内で 着物姿のシーンが多い 月丘夢路は 気持ち良く 演じられた様です。
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