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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

366.二人で歩いた幾春秋

1962年8月  松竹 製作 公開   監督 木下恵介

貧しい道路工夫 野中義男(佐田啓二)と 妻 とら江(高峰秀子)一人息子 利幸(山本豊三)一家の 家族愛を、終戦後から 息子の大学卒業まで 淡々と描いた映画です。

1946年 漸く外地から復員して 家族の元へ戻った野中ですが、就職先が無く 臨時雇いの道路工夫としての 貧しい生活が続きます。
中盤 世話になった先輩工夫 望月(野々村潔)の ダメ息子の就職を 勤め先の係長に頼んだことを とら江に咎められ、怒った野中は 深夜の国鉄身延線富士行に乗ります。
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車内で煙草を吸っていた野中は 通り掛かった車掌(田中勝二)に、「由比に行くんですが乗り継ぎありますか」と問うと「富士で25分待ちで 静岡行の終列車があります」と答えてくれました。
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やがて東海道本線 由比駅へ EF58形電機らしきに牽かれた 列車が到着し、夜中なので 野中は近くの旅館に投宿します。
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翌日 由比に嫁いでいる昔馴染みの千代(久我美子)に来てもらい 会話のシーンらしきが若干有りますが 音声は無く、旅館の部屋と 由比駅のホームから千代に見送られる場面の バックに現れる短歌で 胸中を表しています。
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1957年春 息子利幸から 京大進学が決まったとの報告を受けた 野中夫妻は、身延線自宅最寄りの駅から 夫婦で京都へ旅立つ利幸を 晴れやかな笑顔で見送ります。
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しかし 一年後に利幸から「本当は去年 京大は不合格で、京都で一年勉強して 合格した」との手紙を受け取りガッカリします。
更に1960年夏には「生活の為 バイトで忙しくて 四年生への進級が難しく、大学を中退しようかと 考えている」との手紙を受け取ると、とら江は(迎え頼む 母)の電報を打って 京都へ向かいます。

長旅の列車に揺られ、とら江は近付いた京都の街を 窓越に見ています。
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京都駅11番ホームでは 利幸が、到着する大阪行の 急行なにわ号から降りて来るであろう 母親を探しています。
売店横に停車した列車の デッキから降りて来た とら江を見付けると、
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利幸は駆け寄り 荷物を受け取り下宿へ案内します。
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そして ひとまず実家へ帰り 利幸の今後を 相談することになり、乗換える東海道本線 富士駅に到着します。
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次の身延線列車は 4番線の、15:58発甲府行ですと 案内があります。
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身延線の電車に乗ると、車内でとら江は 千代にバッタリ会います。
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千代は「大変なんです 花火工場が爆発したと 電話があって」と話し、
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2連の身延線電車が 高速で走り去るシーンへと続きます。
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実家で 野中は利幸に「何とか仕送りを増やすから、卒業まで頑張れ」と話しますが 利幸が「荷物を纏めに戻るよ」と呟いたので、とら江は息子の 頬を叩いて「こんな息子 どうなったって知りませんよ あんなに父ちゃんが 言ってくれてるのに!」と言って泣き出します。
母親の意外な行動に 目が覚めたのか「父ちゃん母ちゃん すまない もう一度やってみるよ」と話す利幸は、翌朝 とら江に見送られて身延線の最寄駅から 京都に向けて 再起の旅立ちをするのでした。
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PS.
  低収入で日々の生活にも苦労しているのに、一人息子の高校・大学進学に 夫婦は食費を切り詰めて迄して頑張る姿が 淡々と描かれています。市川大門付近の花火工場が 近い設定の様なので、最寄り駅は身延線の芦川を想定します。

  中盤 野中はとら江と口喧嘩の末に 出征前に手紙を送った千代に会いに 夜中なのに由比へ向かいます。最寄駅を身延線芦川駅として、この無茶な行動を 1955年として妄想すると
  芦川 18:58 ―(636レ)― 21:11 富士 21:57 ―(337レ)― 22:12 由比   由比に停まる終列車は この後富士22:25発 847レがありますが、身延線 636レの次の終電では乗り継げませんし 1954年の時刻表でも 80系らしき電車での運用です。
  また 作中の普通列車には スロフ30形が連結されているので、1955年当時の337レと同様の二等車が映っています。

  折角由比の旅館で千代に会った場面では{向かい合う・窓辺に語る・汝と我・涙流せど・幸せなりき} 由比駅で見送られる場面では{言ひて良き・事すら言はず・帰り来ぬ・夫なき汝と・妻の有る・我れ}と短歌を 野中が朗読して胸中を表現しています。

すぎたま様のコメントにより5枚目の画像で最後尾は、マニ31形荷物車の中でも初期型の二重屋根車だそうです。
  また6枚目の画像の後部車輌はクモハ60形で、利幸が顔を出しているリベットだらけの車輛はクハ47形だそうです。

  とら江が 京都駅へ降りた時 構内放送では急行なにわ号との 案内が流れているので 1960年頃の時刻表から推定すると、芦川 9:14 ―(620レ)― 11:20 富士 12:03 ―(11レ急行なにわ)― 18:03 京都
急行なにわ号は 1961年3月より電車化され ロケ当時は 153系急行電車でしたので、20:06京都着 445レ大阪行の普通列車辺りでロケを行い 構内放送のアフレコを入れたと思われます。

  帰りは富士駅から15:58発甲府行に 乗り継いだシーンしかないので想像すると、京都 10:22 ―(1032レ不定期急行桜島)― 15:28 富士 15:58 ―(631レ)― 18:07 芦川 となって 作中の様に急いで乗換える必要はありません。

  同じくすぎたま様によれば 14枚目の走行シーン画像の手前車輛は、低屋根改造のクモハ14800で 先頭はクハ47だそうです。

  ロケ当時の身延線は 40系等の旧型低屋根電車で運行され、優等列車は無く快速が一往復のみでした。本作公開の二年後の3月より 富士~甲府に80系を使った 準急富士川号が2往復設定され、現在の373系特急ふじかわ号に 繋がっています。
  

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コメント


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二人で歩いた幾春秋

佐田啓二と高峰秀子の夫婦コンビ最終作で、さすがこの頃(1962年)になると「時代」にも「観客」にもこの種の「お涙頂戴式」作品は 受け入れられなかったのではないか。

変わりばえせぬストーリー展開に「もう止めてくれ!」と言いたくなった。

この映画の致命的なところは、華奢な体つきの佐田啓二がどう見ても道路工夫には見えないこと。
後ろ姿まで素敵だった佐田啓二が汚れ役とはね。

11枚目の画像に「今度の発車は」という表記は初めて見たような気がする(当時はそれが一般的だったかもしれないが)。

普通は「次の電車(列車)は」ぐらいではないだろうか。

佐田が乗務員の前でも堂々と煙草を吸っている、のも時代のせいなのだろうか。

赤松幸吉 | URL | 2022-07-10(Sun)16:08 [編集]


Re: 二人で歩いた幾春秋

赤松様 コメントありがとうございます。

イマイチヒットせず DVD化されていないのも、赤松様がご指摘の様な訳なのでしょうね。

「今度の発車は」という表記は関東圏では普通にありましたが、関西圏ではあまり無かったのでしょうか。

身延線は電車線ですが、地方路線なので当時は全線喫煙可だったのでしょう。 正にこの時代ならではです。

勿論当時も東京都内の国電・私鉄では禁煙でしたが、東武鉄道では埼玉・群馬・栃木県内区間では喫煙可能でした。(現在では禁煙)

テツエイダ | URL | 2022-07-10(Sun)23:11 [編集]


みなさまこんばんは。

1枚目画像と2枚目の電車は、身延線のために低屋根化されたクモハ14形800番台(元は横須賀線用のモハ32形)ですね。この車はクロスシートのピッチが狭く、難儀した人も特に後年は多かったようです。
たばこを吸っているシーンですが、身延線は旧形国電時代たばこは吸えました。115系2600番台に置き換えられても、JR化直後までは吸えたんじゃないでしょうか。当時はそれが当たり前でしたね。
ロングシートのローカル向け新形電車の105系も、ドア脇に苦労して灰皿を付けていました。

6枚目の画像の荷物車は、おそらくですが、マニ31形の二重屋根車(初期形)と思います。
7枚目の奥側はクモハ60形のようですが、身延線への投入後間もないのかもしれません。手前のリベットだらけの車輌は、クハ47形ではないかと思いますが、車端部の窓から顔を出しているのは、演出でしょうが多少無理がありそう…。反対側はトイレと思いますので…。クモハ60形がロングシートのため、無理を承知でこうしたのかも知れません。
8枚目の車内シーンですが、当時はまだ急行列車中心の運用であったスハ43系です。座席の背もたれに「頭持たせ」が付いています。これは夜行列車使用時などを考慮した、スハ43系からの装備です。
13枚目14枚目は、クハ47形と思います。奥側の運転室が非貫通なのと、ガラスがはまっていますが、これは戦後の更新修繕でこのようになったはずです。身延線のクハ47形には、ロングシートのものがあり、さすがにそれでは芝居にならないと考えられたのかもしれませんね。
2連で走り去る電車は、手前がクモハ14800、奥がクハ47です(たぶん)。
最後の画像の電車は、屋根が平らなので、これもクモハ14800でしょう。
身延線はトンネルが小さく、買収路線なので、限界拡大が困難で、通る電車の屋根を低くしたのですが、後年115系に置き換える予定で検討したところ、中央線などよりさらに20ミリ屋根を低くする必要があり、モハ114形には2600番台という、パンタを小さくして、さらに屋根をわずかにパンタのところだけ低くした特殊な車輌が作られました。
今はシングルアームパンタという、折り畳み高さの低いパンタの登場で、特段屋根を低くする必要が無くなることになってます。

すぎたま | URL | 2022-07-12(Tue)02:21 [編集]


皆偶数向

身延線の旧国電動車は偶数向きに統一されて居たので考証的には楽でしたね、もっとも
奇数向き車もご丁寧に方向転換してジャンパー栓受けを撤去、床下器具を反転したり、後年は簡単改造で床下器具も入れ替えず母線と作用菅をクロスさせたりとバラエティに富んでいました。

N.N.LC33100 | URL | 2022-07-14(Thu)14:20 [編集]


Re: タイトルなし

すぎたま様 詳細なコメントありがとうございます。

本文にすぎたま様の車輛解説を、加えさせて頂きます。

身延線同様に飯田線でも、国鉄時代は喫煙OKでしたね。

テツエイダ | URL | 2022-07-14(Thu)18:30 [編集]


Re: 皆偶数向

N.N.LC33100様 コメントありがとうございます。

旧国電動車を偶数向きに統一させた必要性があったのでしょうか。(身延線だけ?)

奇数向き車を方向転換してジャンパー栓受けを撤去、床下器具を反転させる手間も相当掛かると思いますが。

テツエイダ | URL | 2022-07-14(Thu)18:42 [編集]


推進運転

テツエイダ様

甲府に向かって勾配区間が延々と続くので電動車牽引では無く推進運転だった
という話を聞いた事がございます、当然身延線だけの特徴で多線区でこのような
例は聞いておりません、また意外に律儀に方転改造しております。
末尾番号が奇数でも偶数向きという例が多く頭痛の種になっております。
特異な例ではクモハユニ64000のように元来偶数向きでありながら飯田線時代は
奇数向きに改造されていた珍車もございます。

N.N.LC33100 | URL | 2022-07-15(Fri)22:13 [編集]


Re: 推進運転

N.N.LC33100様 コメントありがとうございます。

常時推進運転で運行していたとは驚きで、そうまでして偶数奇数に拘ったのですか!

テツエイダ | URL | 2022-07-16(Sat)21:47 [編集]