
山で遭難死した岩瀬秀雄(児玉清)の姉真佐子(香川京子)が 弟の死に疑問を感じ、従兄の槙田二郎(土屋義男)に江田昌利(伊藤久哉)と 慰霊登山に同行調査を頼んで 遭難の真相に迫るサスペンス映画です。
遭難した3人のパーティでは初心者の浦橋吾一(和田孝)が遭難の詳細を書いた 追悼文が雑誌「岳人」に載り、前半はこの文をなぞる様に 浦橋の回想で遭難に至る過程が映ります。
その途中で寝静まった2等寝台車の通路を 巡回する列車給仕が映ります。

そして3段式寝台中段左右に岩瀬と浦橋が横になりながら酒を飲み、下段の江田が「混雑を避けて睡眠をとる、全て初心者の君の為だ」と浦橋に告げます。
その後皆より先に寝た浦橋が 夜中に目が覚めてトイレに行くと、


デッキで岩瀬がタバコを吸っていました。「酔ったので風に当たっているんだ」と言いますが、江田から知られたくない秘密を仄めかされたからでした。
真佐子から調査を依頼された登山家の槙田は 当初申出を一笑に付しますが、追悼文を読むと了承して 初冬に江田と共に鹿島槍を目指すことになりました。
新宿駅下り甲府・長野方面の長距離列車ホームに、

22:45発準急穂高3号 長野行列車が発車を待っています。

2等車の席取りの為先に来た槙田が、窓を開け顔を出して 江田を呼んで案内します。

既に混み合っている車内へ入り窓側の席へ呼ばれると、

座席には例の追悼文が掲載された「岳人」が置いてありました。やがて出発するとウイスキーを飲み交わしながら、槙田は「秀夫は寝台車に乗せて頂いたそうで」と礼を言いつつ江田を持ち上げてます。

夜半に江田が目を覚ますと、向かい席の槙田がいません。網棚のリュックは有り、括られた生花が揺れています。江田は不安を感じてか、前方の寝台車の方へ行ってみます。
2等寝室と書かれた扉を開けると

3段寝台の通路に槙田が立っており、江田の登場を予見していたかの様に「秀夫のやつ楽だったでしょうに 心遣いをして頂いたのにだらしのないヤツだ」と呟いています。

その後 409レ準急穂高3号は早朝 4:57着の松本で下車し 5:08大糸線始発1レに乗り換えて 6:12信濃大町に到着し、大谷原までバスに乗り そこから鹿島槍を目指して登るのでした。 (現在では信濃大町駅~大谷原登山口の路線バスはありません)
PS.
中央本線下り新宿22:45発 準急長野行(松本~長野は普通列車)の列車は、準急アルプス号時代から 寝台車とロ座が連結されていました。本作公開の前年1960年4月下旬より準急穂高3号と改称されています。
当初は並ロ座だけの優等車が1956年11月よりナハネ10形寝台車が加えられ、1958年2月より車体中央にデッキを設けた 独特な形のナロハネ10形2等・3等合造寝台車へと変更されました。(1960年7月より 1等・2等合造寝台車)
1枚目と最後の画像から留置中のナロハネ10に暗幕を掛けて ロケが行われた様です。
何れにしろ給仕が巡回する寝静まった寝台で、酒盛りし談笑する様子は 寝台車と山男の印象を悪くしますね。
6~8枚目の画像はエキストラを入れてのロケかセット撮影の様に見えます。走行中の場面では風を送って花を揺らしていますが、離れた席のリュックから垂れた紐は揺れていません。
また準急穂高3号の3号車ナハ10形普通車に乗車したなら 江田が寝台車である1号車へ行くには2号車オロ36形1等車を通り抜ける必要があり、作中の様にチョット気軽に隣の車輌へといった 行動はとれないと思われます。
寝台車の付いた中央本線夜行準急客車列車は その後 穂高・上高地と名称変更され、更に1966年3月より急行列車となりましたが 1968年のヨンサントウで消滅となりました。
本作は1960年8月17日~9月1日に前半の夏山現地ロケを行い 翌年3月24日~4月11日に天候に悩まされる早春現地ロケを 寒さと闘いながら行い、1961年の夏山シーズン直前に 迫力ある本格的山岳映画の公開に至ったそうです。


