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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

243.あの丘越えて

1951年11月 松竹 製作 公開   監督 瑞穂春海

母の死去により信州の お婆 山口あや(飯田蝶子)の元で育てられ13歳になった白濱萬里子(美空ひばり)が、東京の父親の元に戻されることで生じる様々なドラマを描いた映画です。

学生服の能代大助(鶴田浩二)が上高地の大正池を越えて萬里子の元を訪ねて来て、今度 萬里子の家庭教師となったので迎えに来たと告げます。お婆は泣く泣く、親元へ戻る方が幸せだと承諾するのでした。
翌日 信越本線 信濃追分駅のホームに一同が集まり、お婆と萬里子は別れを惜しんでいます。
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やがてD50形蒸機に牽かれた列車が到着し
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能代と萬里子は車内中央部に席を取って窓を開けます。
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そして窓越しに能代が荷物を受け取り あやと萬里子が手を取り合っていると、汽笛が鳴り響き 動輪が力強く動き出します。
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それでも二人は手を繋いでいて、あやは加速する列車に合わせて走り出します。
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高齢のあやにしては危険な程に走り、遂には手が離れて転んでしまいます。窓越しの離別シーンがある映画は数々あれど、ここまで老婆が走ったアクションシーンに近い作品は珍しいと思われます。

次に上野駅 高架第四ホーム らしきへ列車が入線する場面の後、
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到着した列車から続々と乗客が降りる最後の頃に萬里子と能代が現れました。乗って来たのは、二重屋根の普通列車用旧型二等車の様に見えます。
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萬里子と能代が周囲をキョロキョロ見ていると、父 白濱研一郎(新田實)と会うことができました。このシーンで列車が到着したのは、何故か 3番線であることが分かります。
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終盤 萬里子が実の孫ではないことが分かった祖父 倉橋伍平(河村黎吉)は怒り出し、それで家庭内が暗くなった責任を感じた萬里子は家出します。暗い中 上野駅北部にある両大師橋上から、夜汽車を見つめる萬里子の姿が映ります。
翌朝 萬里子が乗ったと思われる列車が、お婆のいる信州を目指して走っています。
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萬里子は知りませんでしたが、実は前日 白濱家に あやの危篤を伝える電報が届いていたのです。

偶然にも萬里子はお婆の臨終に間に合い 、お別れを言うことができました。そして一人 大正池へ向かう萬里子なのでした。一方 朝まだきの信濃追分駅を降りて来た能代は、足早に萬里子の後を追います。
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大好きな大正池へ入水した萬里子は能代に助けられ、元気を取り戻します。そこへ同級生母娘や両親に祖父 倉橋も笑顔で駆けつけて来てENDとなります。




 PS. 

 萬里子は浅間山が近い、北軽井沢の牧場で育った様です。最初と最後に離れた上高地の大正池でロケが行われていますが、信州という大きな括りで大目に見てください。

 萬里子が上京する場面で D50形蒸機らしきが登場しますが、発車する時の足回りはD51形蒸機らしきボックス形動輪です。当時の上田区・長野区では、客貨共D50形・D51形蒸機を使用していた様です。
 想像するに 最初 D50形蒸機牽引列車の客車中央部に乗車し、窓越しに別れを交わすシーンの撮影をします。一旦 降車し 次のD51形蒸機牽引列車で、機関車の足回りとデッキ隣の席で離別シーンのロケが行われたと思われます。
アクションシーンに近い 走るお婆を演じた飯田蝶子は、この時 54歳でした。長年老け役を演じていたので、もっと高齢かと思っていましたが意外ですね。

 当時の時刻表では 信越本線 信濃追分駅から上野行列車は、夜行1本を含んで一日7本設定されています。このうち 7:59発 322レと 9:49発 324レでロケが行われたと思われ、324レの上野着は 15:04なので後の展開に合致しています。
 そして上野駅 高架第四ホームの 7番線らしきに到着する姿を両大師橋から撮っている様です。当時は田端~田町で山手線と京浜線が線路を共用していたので、3番線ホームで長距離列車が到着するシーンのロケが行われた様です。

 お婆のいる故郷へ帰ろうとした萬里子が乗った列車は上野 23:50発の普通 米原行 611レと思われ、信濃追分駅に翌朝 5:35頃に着いて お婆の臨終に間に合ったのでした。
 また 連絡を受けて萬里子を探しに行った能代が使ったのは、翌日 上野 22:50発の普通 直江津行 327レと思われ 早朝 4:03頃の信濃追分着です。

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コメント


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D50とD51

ボックス形動輪の下まわりのシーンは明らかにD51と断定しうると思います。また、スポーク動輪をボックス動輪に履き替えた例はC51以外は知りません。

特別急行列車 | URL | 2017-10-18(Wed)22:15 [編集]


Re: D50とD51

 特別急行列車 様  コメントありがとうございます。

足回りが写っている画像を比較してみると、なるほど動輪以外の部分が明らかにD51ですね 訂正させて頂きます。

スポーク動輪をボックス動輪に履き替えたのは、C51くらいなのですか。ご指摘ありがとうございました。これからも御意見 よろしくお願いいたします。

テツエイダ | URL | 2017-10-19(Thu)15:07 [編集]


あの丘越えて

これ(「あの丘越えて」)を含めて「東京キッド」「悲しき口笛」など、数多くの子役時代の作品が原型のまま完全な形でよくぞ残っていてくれた、現在でも天才少女・美空ひばりの映画が鑑賞できるのは「神慮」と感謝すべきであろうか。

飯田蝶子はこの時54歳か。

戦前の映画を見ても、飯田蝶子はすでにお婆さん役だ。
一体、若い時っていつあったの? と言いたくなるほど。
まさか、オギャと生まれた時から、取り上げ婆さんより老けてみえたはずはないだろう。

ホームでの見送りシーンで、車窓越しに美空ひばりの手を握ったまま、加速を増す汽車に負けじとたった、たったと駆ける、走る、駆ける、走る、イダテン走りの「お蝶」なのだ。

しかも、目はひばりの顔を方を向いたままで、前方は見ていない という危険極まりない撮影なのだ。

「お嬢よ! 早く手を離してやれよ」と思わず言いそうになった。

信州という大きな括りでのロケらしい、この当時信州ロケを敢行するのは大変なことであっただろうな。

「カルメン故郷に帰る」も同年(51年)に近く(北軽井沢一帯)でロケをしているので、松竹のスタッフは信州の土地勘があったのかもしれない。


ひばりが顔を出している客車は、4枚目と6枚目の写真とでは明らかに違いますね。

しかし、これは写真をこうして2枚並べて見ているから分かることで、当時の観客はその場でパッとこのことに気がついた人はほとんどいなかったのではないか。

ひばりとお婆さんは手を握りあったままなので、ひばりが後部のデッキ隣の席へ移動したとは到底考えられない。

テツエイダ様の想像「最初 D50形蒸機牽引列車の客車中央部に乗車し、窓越しに別れを交わすシーンの撮影を~~」は正しいと思われますが、ワンカットで充分なのに、何故同一列車で撮影しなかったのか、疑問です。

赤松 幸吉 | URL | 2019-01-22(Tue)19:39 [編集]


Re: あの丘越えて

 赤松様 コメントありがとうございます。

本文でも触れましたが、「お蝶」さんの走りには驚かされますね。

後部のデッキ隣の席で撮影したのは想像するに、最初の撮影では監督の望む緊迫感のあるデキでなかったからと思われます。
そして次の列車では、後部のデッキ隣の席の方しか協力が得られなかった・・・(あくまで妄想です)

テツエイダ | URL | 2019-01-23(Wed)19:51 [編集]