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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

219. 風の子

1949年2月 映画芸術協会 製作  東宝 配給 公開   監督 山本嘉次郎

父親が出征した山田家の皆が疎開先で差別や苦難に会いながらも、父親の帰りを希望に 行動を共にする小母さん(竹久千恵子)と一致団結して立ち向かう姿を描いた映画です。

冒頭 疎開先の越後を追い出された一家が、知り合いを頼りに七尾線の金丸駅に到着した場面があります。雨が降る中 C58形らしき蒸機が二重屋根の客車を牽いて発車して行きます。
傍らの金丸駅と書かれた天水受けらしきに、勢いよく雨水が流れ込んでいます。近所の家から小母さんが大八車を借りて来て、持ってきた家財道具を運べる様です。

中盤 最初に疎開した越後での回想場面があります。地元の人々に疎開者である一家は阻害され、実力者と衝突して遂に借りていた家を追い出されることになってしまいます。
転居地を小母さんが英二(藤本武)を連れて汽車に乗って捜しに出ますが、中々見つからず車内で途方に暮れて柿を剥きながら涙ぐむ小母さんでした。
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その時 小母さんは小さいころ育てられた能登半島にある遠い親戚を思い出して、早速翌日に越後の駅から能登へ向かいます。去り行く汽車は最後部まで超満員で、終戦直後の様子です。
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親戚も見送りに来ないのに 一家に当初は嫌がらせをした くまん蜂こと山村八造(宮川富士夫)と子分の子供達だけが沿線から見送ってくれたので、一同 窓から顔を出して手を振って応えます。
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苦難の続いた金丸での生活も漸く落ち着いた頃「明日朝八時 金丸に着く 父」という電報が着きます。翌朝 雨が降る中 金丸駅へ219-4.jpg
一家総出で迎えに行くと、遠くから一番列車がやって来ました。
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C58形蒸機が郵便・荷物車を挟んで二重屋根の旧型客車を牽いて到着しましたが
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父(渡辺篤)は降りて来ません。一同ガッカリしますが、乗り遅れたのかも と駅舎内で待つことにします。

ところが次の列車からも、その次も父親はあらわれませんでした。
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仕方なく持参した食糧を食べ、自宅に電報が来ているかもと力なく引き返す一同でした。
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しかし家に戻ると父親が帰って寝ており、あわてて一つ前の駅で降りてしまったとのことでした。父親は皆を待つ間 英二が書いた疎開生活の回想記を読んでいて、一家が会った数々の苦難を承知していたのでした。









PS.

父親からの電報の日付は昭和20年10月ですが、小母さんの発言から一家が越後から能登へ移転したのは 1945年秋と思われます。越後の何処から乗ったのか不明ですが、仮に南の直江津だとしても大変です。
1944年末の時刻表しか分かりませんが、直江津 8:58 ー( 603ㇾ )ー 13:19 津幡 14:31 ー( 9ㇾ )ー 15:42 金丸 と乗り継いだと思われます。超満員列車で所用8時間44分は過酷な旅だったでしょう。

また父親の復員は昭和21年10月と思われ 乗った列車を捜すと、1946年秋の七尾線の時刻表が不明なので 1947年6月号では 金丸 8:15 頃の 3ㇾがあります。
父親はあわてて手前の千路で降りてしまったと釈明しましたが、次の列車は2時間半後であり 千路~金丸は 3.7kmなのですから普通なら出迎える家族が待つ金丸まで歩くと思いますが・・・

電報を打ちながら一人勝手に帰宅して寝ていた父親の行動が事実だとしたら、能天気な父親であり ひたすら駅で待つ家族の姿に哀愁を感じます。
そんな父親を非難する者は誰もいなく、皆笑顔で喜んでいます。それだけ皆が待ち焦がれていた復員で、父親を頼りにしているんですね。
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コメント


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風の子

映画は未見だが、この文章と写真だけで、この作品=「山本嘉次郎の世界」がほのぼの、しんみり、しみじみとした感動作だということがひしひしと伝わってくる。
1949年制作なのでそろそろ版権が切れ、 public domain となりつつあるので、是非このような良作はyoutubeかどこかで公開して欲しい。

各映画会社も古いフイルムを取り込んでいても一文の得にもならない。それよりも旧作を積極的に無料公開して、邦画ファンをより開拓していった方が、結局は映画界のためになると思うのだが。

さて、私の小さい頃の国鉄は写真のように常に ぎゅうぎゅう詰め状態で座席に座れるということは先ずなかった(これは映画館でも同じ状況だった)。
しかし、このようなすし詰め電車だらけでも、実に実に不思議なことに遅延はほとんどなく、どこでもいつでも時刻表通りにきちんと発車した。

現在のJRではなにかちょっとした人身・物損事故らしきことがあれば、やたらに遅延や間引き運転をやっている。それほど人命安全を優先しているのだろうが、余りにも神経質になっているのではないだろうか。

こう考えれば、当時の国鉄は世界に誇るジャスト発車時間厳守だけを気にかけていて、一方では乗客の安全などはないがしろで、二の次だったに違いない。

また、横柄にも乗客に切符を持たせたまま、入鋏(パンチ)する持たせ切り・改札係もいて、こわごわ注意すると反対に睨まれたりした。

とにかく、昔の国鉄は「怖かった」のだ。

本文に「二重屋根の客車」とありますが、具体的にどんな使用の客車ですか。

赤松 幸吉 | URL | 2016-10-22(Sat)20:25 [編集]


Re: 風の子

赤松様 長文のコメントありがとうございます。

なるほど昔の国鉄は今とは職員教育から違って、サービス業という意識は希薄だったと思います。
定時運行に対する誇りと拘りは今より強く、途中で遅れが出ても最後は定時に戻すことに熱を入れていた様に思われます。

二重屋根客車は昭和初期までの木造客車時代に多用された、採光などの為に屋根の中央部が一段高い形の客車です。
現在では東京都電の 9000形がレトロ風車両として二重屋根風のデザインを採用しています。

 本編では枕木柵の花にピントが合わされ、客車がボケていたので画像使用を見送りました。
当ブログではカテゴリー中央本線で( 83.わかれ雲 )の1・3・5枚目画像に不鮮明ですがあります。

テツエイダ | URL | 2016-10-23(Sun)11:19 [編集]


風の子

この映画は今では忘れられたようなところはあるが、このような感動・良心作がかって日本映画にあったかと思うと心が晴れやかになってくる。

同監督(山本嘉次郎)の 「綴り方教室」風であり、新藤の「裸の島」風であり、今村の「にあんちゃん」風であり、清水宏の「子供の四季」風である。

この映画で「米ちゃん」を演じている登山(とやま)晴子という妙に気になる女優を知った。
いわゆる美人ではないが、親しみの持てる愛嬌のある顔立ち、それに舌足らずなセリフ回しで、どこかひっかかる女優だった。

黒澤明「一番美しく」などにも出演しているらしいが、今まで全然名前も知らなかった。

「見送りに来たのはあの子らだけね」と、「くまん蜂」らが家族を線路沿いから見送るパターンは何度となく繰り返し日本映画には登場する定番シーンだが、ここでは特に演出に技巧を施しているわけではないのに、何故か心が洗われる感動シーンである。

能登へと向かう列車は超満員なはずのに、子どもたちが座席に座っている。

当時はかなり大きな子どもでも膝にだっこし、立っている人に座席を譲るのがエチケットであった。

特に、「こども料金」を払っていない幼児については必ず膝に乗せたものである。
そうしないと、周りの人から鋭い視線で見咎(みとが)められたものだ。

撮影のため仕方がなかったのだろうが、この映画では幼い悦子や貞子までも一人分の座席に座っている。

赤松 幸吉 | URL | 2019-06-19(Wed)20:23 [編集]


Re: 風の子

 赤松様 コメントありがとうございます。

確かに「くまん蜂」らが家族を線路沿いから見送るシーンは、本作中で一番の感動シーンでしたね。

また終戦直後で2枚目の画像の様に超満員列車なのに、ご指摘の様に子どもたちが座席に座っていますね。
不自然で当時の実情に合わないシーンの様に思われます。山本監督とは思えない場面です。

テツエイダ | URL | 2019-06-20(Thu)23:00 [編集]