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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

374.名もなく貧しく美しく

1961年1月 東京映画 製作  東宝 配給 公開   脚本・監督 松山善三

耳が聞こえない二人が ろう学校の同窓会で出会い 結婚しますが、数々の困難に直面しながらも 二人は助け合い 少しずつ乗り越えて行く過程を描いた映画です。

当初 竜光寺の僧侶 真悦(高橋昌也)と結婚した秋子(高峰秀子)でしたが、戦後の買い出し列車内で感染した
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発疹チフスで真悦が死亡したことから 離縁され 実家へ戻されてしまいます。

その後 秋子はろう学校の同窓会で 受付をしていた片山道夫(小林桂樹)と出会い、山手線渋谷~恵比寿の線路沿いで 東急電鉄東横線と交差する地点で お互いの話しています。
上を立体交差する東横線の 5000系電車4連が通る轟音も 
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横を高速で走り抜けて行く 山手線の72系電車の騒音も、手話による 二人の会話の世界には 何の邪魔にもなっていません。
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翌日 片山から電報で 上野動物園に呼び出された秋子は 猛獣が消えてしまったままの園内を 二人で歩き 片山から求婚されますが、一度失敗していることもあって 断ります。
それでも片山が 粘り強く願い出るので、秋子は母親に相談すると話して 帰路に付きます。二人で駅の構内踏切を渡り、
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定期券を見せながら 改札口を通ると 駅員(南道郎)が呼び止めます。
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更に大声で 駅員は呼び掛けますが、耳の聞こえない二人は 歩き続けます。同僚に後を託した駅員は 走って二人に追い付くと、何も話さない片山を 殴り倒してしまいます。
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傍らを2連の国電が走る所で秋子は 必死に事情を 駅員に伝えようと頑張ると、漸く理解した駅員は「なんだ唖か!」と呟くだけでした。

この一件で 決意を固めた秋子は「私達の様な者は お互いに助け合わなければ 生きていけません 道夫さん 一生私を助けてくれますか(道夫承諾ス)私も道夫さんの為なら どんなことでもします」と伝え二人は結婚に同意したのでした。
そして 道夫の伯父さん(織田正雄)と 秋子の母親(原泉)立ち合いの元 無事結婚式を終えた二人は、C61形蒸機牽引列車に揺られて 新婚旅行に出掛けました。
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こうして結婚した二人でしたが 耳が聞こえない同士故に、第一子を事故死させてしまったり・騙されたりしながらも 二人で靴磨きの仕事をしたり、第二子が宿ってからは 片山一人で 貨車から荷下ろしの 肉体労働に精を出して 生活費を稼ぐのでした。
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しかし グレている秋子の弟 弘一(沼田曜一)に 片山は給料を貸し倒された挙句、同居した秋子の母親が 大事な指輪を売った金で購入したミシンを 弘一に売り飛ばされてしまいます。
親に反抗ばかりしている 小学一年生の第二子 一郎(島津雅彦)の 子育てにも悩んでいた秋子は 遂に絶望感から、「弘一を殺して 私も死にます」と道夫に手紙を残して 家を飛び出し駅へ行ってしまいます。
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直ぐに手紙を読んだ道夫は、秋子を追い駆け 山手線大塚駅へと向かいます。
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階段を駆け上がったホームを見渡し
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捜しますが見つからず、
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一足早くホームの前方にいた秋子は 到着した電車に 乗る姿が見えました。
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片山は素早く 閉まりかけた近くのドアに 飛び込み、
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電車は出発しました。
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乗客の波をかき分け 前方へと進みます。374-18.jpg
ところが車端部に来ても、隣の車輛に移れない 構造になっています。

そこで片山は 隣の車輛内部が見易い 窓際に移動し 隣の車内を見ると、
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憔悴しきった様子で 立っている 秋子を発見しました。
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身振り手振りで 窓際に呼び寄せた片山は、なんとか秋子を 翻意させようと 必死の説得を続けます。
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そして「結婚を決めた時に 交わした約束を 忘れたのですか?」と聞くと、秋子は涙を流して 考え直す約束をしたのです。
そして片山は「もうこの手紙は 破り捨てましょう」と伝えると 秋子が頷いたので、
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総武本線 秋葉原~お茶の水に在る 松住町架道橋上から 破いた手紙を 紙吹雪の様に捨て去りました。
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PS.
  山手線の線路際で 二人が騒音の元で会話する場面で 頭上を5000系連電車が走っていますが、せめて デハ3700形等の 3000系電車が走って来たタイミングで 撮影してほしかったですね。(時代設定は1948年頃でしょう)

  7枚目の画像は C61形蒸機20号機ですが、ロケ当時 仙台区に所属し 東北本線・常磐線等で活躍していました。脚本では 伊東温泉へ新婚旅行に 出掛けた様なので 合っていませんが、松島方面への行先を想定して このカットを入れたのでしょうか。

  秋子が置手紙を残して向かった駅は 山手線の大塚駅ですが、階段を上がったホームは2面あり 明らかに違う駅です。南武線の尻手駅に似ていますが、向かいホームの待合室は 東武鉄道の造りに似ていて 小生には分かりませんでした。
  片山の動きを見ると 手前に撮影用のレールを敷いて 横方向に移動しながら撮影しているので、国電が映る13・14番目の画像と 別撮りでしょう。


  (車内シーンは セット撮影ですが 山手線の外回り電車に乗ったとしても 次の巣鴨駅には3分足らずで着いてしまい、歴史に残る 6分間の名場面となりませんので 架空の快速電車としてご理解ください。)
  (更に片山が持参した手紙を 特徴ある松住町架道橋上から撒く為に、山手線・中央本線・総武本線と 渡り走るミステリー運行したと 苦しい想像をお願いします。)

  

   高峰秀子と小林桂樹は 難しい役柄に挑戦し クランクイン1か月前から、ろうあセンターの 三田尚子氏・画家の黄田貫之氏の特訓で 手話での日常会話をマスターしたそうです。(特に小林桂樹は、一言も台詞がありません!)
手話での会話は スーパーインポーズで翻訳し、時には翻訳を入れず 観客に想像させるシーンも幾つかあります。

  また竜光寺の建物・戦後のバラック・片山宅付近の街並みは 全て川崎市溝の口に 二千万円を投じて作った オープンセットだそうで、東宝美術スタッフ・東宝舞台(株)の得意技です。

  弘一役には 新東宝の沼田曜一が呼ばれて 出演しています。特に秋子の内職の柱である ミシンを売り飛ばす場面では、運送屋の三輪車に追いすがる秋子の 手を踏みつける悪役ブリが印象的です。 
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  本作の製作5年前に 松山善三が 松竹の木下恵介監督と 有楽町のガード下で ろう者夫婦が 靴磨きをする姿を見て、共に映画化を思い付き 松山善三が取材・構想を纏めましたが 木下と考え方が合わず 東京映画で製作されました。
  完成試写会には 映画評論家と並んで 木下恵介氏も参加し、素晴らしい出来栄えに 絶賛したそうです。公開年の キネマ旬報ベスト・テンでは 第5位でした(第3位に木下恵介監督の{258.永遠の人})

 参考: 映画情報 1960年12月号 ・ 映画芸術 1961年4月号

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373. 指導物語

1941年10月 東宝 製作 公開   監督 熊谷久虎 

戦地で機関士として 軍用列車を運転出来る様に 鉄道連隊の特業兵を、短期間での猛特訓で 指導する様子と 師弟愛を描いた 良質な国策映画です。

千葉機関区の 老機関士 瀬木角市(丸山定夫)は 機関助士 北原實(北沢彪)と 組んで乗務した帰りに、省線電車が走る線路際を 二人で話しながら歩いています。
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右側が千葉機関区の西端で、給水塔の下に気動車があり 左側を三連の省線電車が走っています。

やがて千葉機関区で受け入れた 16名の特業兵の内、母子家庭育ちの 佐川新太郎(藤田進)が 8620形蒸機の前で瀬木と初対面です。
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指導する内 佐川を気に入った瀬木は 機関車の専門書を古書店で購入し、翌日 早目に出勤して カマの点検をして佐川を待ちます
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一方佐川は 鉄道連隊を出て、省線電車で仲間と千葉機関区へと向かいます。
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佐川が現れると 瀬木は駆け寄って、アメリカ製B6の 2500形蒸機をバックに渡すと 感激する佐川です。
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機関区には 瀬木の長女邦子(原節子)が現れ
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慌てて忘れた弁当を瀬木に渡し、「こんな事は初めてだわ」と言いつつ 佐川と初対面するのでした。
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その後 瀬木の厳しい指導に なんとか応える ある日、
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千葉駅で 盛大な出征見送りが行われている中 バックで機関区へ向かいます。
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房総線ホームに 停車しているのは、区間運転用の キハ42000形気動車でしょうか。やがて機関区の 扇形庫をバックに、転車台に載り 帰庫となります。
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佐川が 蒸機の運転に大分慣れて 快調に走っていた折に、並走区間で 左側から同僚の特業兵 草野淳(中村彰)が運転する C58217牽引列車に抜かれて行きます。
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これを見た瀬木は 佐川に加速する様命じて、一時は最後部まで 完全に抜かれていた隣の列車を 抜き返してしまいます。

すると 隣の指導機関士 田町信治(藤輪欣司)も草野にハッパを掛け、再び抜き返す 217号機と218号機の併走状態となります。
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やがて並走区間は終わり、草野が運転する列車が 左カーブで離れて行きます。
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田町機関士と志村淳三機関助士(津田光男)でしょうか、爽やかに手を振りながら 去り行きました。
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それからも 佐川の訓練運転は 昼に夜に続き 御宿駅で対向列車の到着を待っていると、助役が飛んで来て 佐川に「至急隊の方へ帰る様に電話があった」と伝えました。
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そこへ対向列車が到着したので、佐川は急いで 先頭の機関室へ乗り込みました。
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するとそこには 草野が乗務していたので 最後の機会と機関士にお願いして、草野が機関士・佐川が機関助士として組んで
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海辺を走らせたのでした。
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いよいよ佐川達が出征する日 佐倉駅全てのホームには、大勢の見送り人で溢れています。邦子達三姉妹も割烹着に(大日本國防婦人會)の襷を掛けて、国旗を手に並んでいます。  C58202号機が牽く客車には 出征兵士が大勢乗り込み、
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ホームの見送り人と 別れの挨拶を交わす人もいます。佐川の母親も 遠路はるばる、前夜に駆け付けることが出来ました。

やがて汽笛と共に 列車が動き出すと、見送り人達は 一斉に万歳の連呼です。
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列車が機関区の前に来ると全職員が総出で、特業兵士が乗る列車を見送ります。
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草野を見送りたい田町は列車に駆け寄り、瀬木も追い駆けて 佐川と最後の別れを交わすことが出来ました。
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PS.
  中国との戦争が5年目に入り 太平洋戦争開戦の2か月前に 公開された本作は、国策に従って製作されながらも 暗くなる世相・別れの悲しみ・仄かな恋心・喜劇心を表現できた 最後の戦中映画かもしれません。

  撮影は 1941年冬から8か月間に及びましたが、鉄道省の後援もあって 千葉機関区の協力の元で 併走シーン等の 画期的な撮影も出来ました。
  小生が本作の製作に 影響を与えたと思う映画は、NHKの番組で一部放送された 1940年鉄道省 製作映画(機関車物語)です。その中で併走場面こそありませんが、10m程の距離を保って同速度で走りながら 後方を走る C57形蒸機の前面走行シーンを撮っています。

  むしろ苦心したのは 機関室のセット製作と、実写では光量不足で不可能な 夜間走行シーンを ミニチュアで行った撮影だったそうです。
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  機関室のセット製作は 鉄道省に相談し 560kg以上に及ぶ本物の部品を借用して、それに耐えられる 厚いベニヤ板に取り付け 薄鉄板を被せたそうです。

  焚口内部は トタン板の上にレンガを積み、外部は木材の骨組みに ベニヤ板の上にトタン板を張って ペンキ3回塗りの上に 煤を押さえて実感を出したそうです。
  組立には 大宮工場から 専門家に来てもらい、監修の上に 製作したそうです。このセットは自由に方向転換が可能で 送風機で風・雨・吹雪を再現し、前後左右からスクリーンプロセスで 実写に迫る 臨場感ある作品に 出来上がっています。

一方 C58形蒸機のミニチュアは 当初22分の1模型を 5月頃から製作しようとしましたが、予算を遥かにオーバーしそうなので 鉄道博物館に陳列されている10分の1模型を お願いして借りたそうです。
  車内燈付きの木製客車を作り 家屋は15分の1で 各種ジオラマを製作し、9月1日に C58の模型を借り出して 細いワイヤーを巻取り式に引っ張って 動かしたそうです。
   (参考:映画技術 1941年11・12月号)



  佐川の所属は 鉄道第二連隊と思われ、4枚目の画像で 佐川が乗り込む駅は 津田沼と思われます。

  12~15枚目の画像で紹介する 併走シーンは、総武本線佐倉駅を過ぎて 総武本線と成田線が3㎞程に渡って並走する区間で 何度も撮り直して 迫力ある作品へと仕上げています。
  上記(機関車物語)の撮影も この区間で撮影されたと思われ、本作の前年に製作されているので 参考資料や撮影方法の意見を頂けたのでは・・・

  13枚目の画像は キャブの下に鉄材で組んだ 吊り下げ式の台を作り、カメラを載せて 撮影しています。
  続く画像は 炭水車の上でカメラを構えて、両方の蒸機が 併走から別れ行く 迫力あるシーンを見事に捉えています。

   それまでの佐倉駅での 出征兵士見送り場面 撮影部分から、何故か一転して 21枚目の画像から 千葉機関区横からの見送りシーンへと 移っています。 去り行く列車の手前には、キハ41000形らしき気動車がいます。

  23枚目の画像で 瀬木と田町が客車に駆け寄り 佐川と草野を探すシーンで映っている客車は、ターンバックルも厳つい 木造二重屋根の ホハ12000形客車です。

  最後の見送りシーンは 桁外れに大勢の エキストラを動員して感動させ、ラストシーンでは 一転して 仲の悪い瀬木と田町が 師弟愛を表現しつつ 喜劇映画の様な絡み合いで エンドマークとなっている点が 並の国策映画と違うところでしょう。

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372.我が家は楽し

1951年3月 松竹 製作 公開   監督 中村登

借家に6人で住む植村家で 画家志望の長女朋子(高峰秀子)を軸に、お互いの家族愛を描いた ホームドラマです。

冒頭 京王帝都電鉄 明大前駅らしきに 2連電車が到着し、
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駅舎から会社帰りの 植村孝作(笠智衆)が出て来ました。
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そこへ 次女信子(岸惠子)から「お父さ~ん」と声が掛かり、信子は「コーラスの発表会へ」と言って 出かけて行きました。そんな信子の背後の橋梁下を、井の頭線の電車が走っています。
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長女朋子には湘南の療養所に入っている内山三郎(佐田啓二)という、肺病を患っている恋人がいます。
この日は隣の洋館を画いた絵を朋子は持って、80系初期型湘南電車に乗り療養所の内山を訪ねました。
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その後植村は会社で勤続25周年の表彰と共に金一封三万円を頂き、帰りに妻なみ子(山田五十鈴)と待ち合わせて高島屋デパートへ買い物に出掛けます。
ここで高島屋日本橋店前の銀座通りを走る、大型の5000形らしき都電車輛が映ります。前後に集電ポールを付けた、ピューゲル化直前の姿です。
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子供達へ希望のプレゼントを買った帰りに 電車の中で残金を掏られてしまった植村は 
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元気なく帰宅しますが、子供達に勤続25周年のお祝い会をしてもらい 大いなる幸福を感じるのでした。

それから京都へ修学旅行に行った信子から絵葉書が届き、お寺が多くて驚いた感想と共に京阪四条駅付近を走る2連電車が3カット映ります。
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現在の京都四條南座とアサヒビールの建物以外は、木造建築物ばかりの京阪四条駅(現:祇園四条駅)付近ですね。遮断機の無い四条通り踏み切りを通る電車は、二重屋根の2連で時代を感じさせています。
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幸せそうな植村家でしたが 長男和男(岡本克政)が骨折して治療費が嵩み、大家さんが隣家の金沢に家屋を売却したので 引っ越しを余儀なくされます。
そんなところへ 内山が危篤との電報が届き、朋子は夜間にもかかわらず 湘南電車に乗って駆け付けます。
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車内では心配そうな表情の朋子です。
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その後 内山は亡くなり、形見代わりに 内山が植えたチューリップの鉢植えを 朋子は受け取りました。
植村家が住む家を 購入した金沢老人(高堂国典)は 下見に来た折に 朋子の絵を気に入り、引き続いて 住むことが出来る様になり いつしか チューリップの芽も出ていました。





PS.
  冒頭の 2連電車が停車する駅は(キネマ旬報社刊「東京映画地図」宮崎祐治)で、当時の京王帝都電鉄 明大前駅だそうです。

  駅舎の様子からも、この駅は全然分かりませんでした。最初の2連電車は 新しそうなので、2600系でしょうか?

  高島屋日本橋店前を走る 5000形らしき都電車輛は、三田車庫に少数が所属して 1系統限定で運用された内の 1輌と思われます。
  本作公開当時の 1951年2月~4月にかけて ポール集電から ピューゲルに改造されたそうなので、改造直前の姿と 思われます。

  京阪電鉄と四条通りが交差する踏切では、京都市電四条線 1・7・17・20系統 何れかの電車が待っています。
  この踏切では 市電が廃止された後の 1982年10月まで遮断機が無く、警報ベルと警戒誘導員で 対処していたそうで驚きです。


  大女優 岸惠子にとって 本作がデビュー作品だそうで、高峰秀子と姉妹役であり 後年に比べ 未だ少々ふっくらとした頃でした。
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