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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

354.恋は異なもの味なもの

1958年4月 東京映画 製作 東宝 配給公開   監督 瑞穂春海

寄席小屋を営む 仙介(日守新一)は モダンな娘 光子(雪村いづみ)と 鰻屋の主人 繁三(森繫久彌)の甥 新太郎(藤木悠)を 結婚させようとしますが、すれ違いとなる 下町人情調の 喜劇映画です。

冒頭 華やかな東京の中心部に対して ガタゴト走る1系統と
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30系統の都電と
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寄席小屋寿亭を、斜陽な存在として光子が紹介しています。

続いて 寿亭で お茶子として働く咲子(津島恵子)を フランスへ留学中の兄 幸介の許嫁で、やがては 義理の姉となる存在と 紹介します。

ある日 咲子は 母親の墓参りの帰りに、上野の科学博物館近くで 新太郎とバッタリ会います。

上野駅が見下ろせるベンチに 新太郎は座りますが 着物姿の咲子は座らず、
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仙台への転勤を聞いた咲子は 両大師橋へ向かって走る汽車を見て
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「あの汽車が仙台へ行くのね」と呟きます。

光子と新太郎を 結び付けようと 繁三が張り切ると、二人共 満更でもない様子で 話を進めるのでした。

ところが フランス帰りの水島陽子(木村俊恵)から「フランス女性と結婚した」との 幸介からの伝言を聞いた光子は 咲子に伝え、咲子の本心が 新太郎に向いている事を 聞き出します。

光子は新太郎に 咲子の気持ちを伝え、二人の仲を 取り持つ事にしました。

いよいよ二人が 仙台へ旅立つ日 上野駅では「まもなく 17:20発 常磐線周りの 急行青森行が発車します」と構内放送が流れ、
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C61形蒸機に牽かれた 列車が動き出しました。
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並ロの車内に 並んで座る二人の内 咲子が「みっちゃん 見送りに来てくれなかったわね」と言うと、新太郎は「みっちゃんのことだから 何処かで 我々の幸せを祈ってくれているよ」と応えます。
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一方光子は 両大師橋の上から 二人の乗った列車を見ていました。汽車の爆煙が 光子に迫り来たので、
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橋の反対側に走ると 煙を避けながら 去り行く列車を見送るのでした。
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上野駅西側の 線路沿いの坂道を 元気なく歩いている光子に、354-15.jpg
公園口から 見送りして出て来たらしい繫三が 後ろから「おーい みっちゃんも 見送りに来たのか」と声を掛けます。

光子は 曖昧な顔で否定するでもなく、しゃがんで 靴の紐を直すのでした。繫三が「そうか 本当はみっちゃん 新太郎のことを・・・」と呟くと、背後を 京浜東北線北行電車が通ります。
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PS.
  1・2枚目の画像で 都電1・30系統の電車が 映っていますが、同じ線路を走っているので 中央通りの須田町~上野駅前の何処かでしょうか。

  (306.女中ッ子)でもロケが行われた 上野駅が見下ろせる線路端で、明確な列車は映っていませんが 本作でもロケが行われました。

  ロケ当時は 東北本線の大宮から先が 未だ非電化なので、東北本線・常磐線の長距離列車の大半が 蒸機牽引列車でした。本作公開月に 宇都宮迄電化されて、上野へ乗り入れる蒸機が グッと減ります。

  17:20発の 急行青森行との放送ですが これは架空列車で、常磐線では 16:05発 203レ急行北上と 19:15発 205レ急行十和田の 真ん中辺りの設定で 脚本が書かれています。

  しかし 転勤地の仙台着が 203レを使っても 22:08なので、架空列車の到着は 23:23頃と計画が不自然です。9:50発 201レ急行みちのく青森行の仙台着が 15:47なので、常磐線周りなら 現実的には 201レを使うと思われます。

  C61形蒸機に牽かれた列車は 当時の地平11番線から発車していますが、上野駅の配線状況から 当時の常磐線周りの 急行青森行5本(201レ・203レ・205レ・207レ北斗・209レおいらせ)の全てが 高架6~8番線からの発車でした。

  映っている列車が 急行だとすると C6119号機が 当時白河区所属であったことからも 11番線から 13:30発 103レ急行松島 仙台行と思われ、仙台に 20:18到着と 転勤利用には現実的ですね。11枚目の画像からも東北本線への、長距離 長編成の急行列車と思われます。

当時の常磐線は 日暮里~平(現 いわき)が複線化され 勾配も最大10‰と 蒸機には好条件で、上野~青森の直通急行は 5本全てが上野~仙台を常磐線周りで運転していたので 架空放送の様な内容となったのでしょう。
  
  東北本線の方は 複線化が東京~宇都宮だけと 常磐線の半分以下で 勾配も25‰区間があるので 補機が必要となり、青森・秋田行と標示している 101レ急行青葉も 仙台へ着いた7輌中2輌だけを 201レ急行みちのくへ併結して青森へ向かったのが実態です。

  こうした事情から 本作公開の半年後に誕生した 東北地方初の1レ特別急行はつかり号(上野~青森)も、上野~仙台の区間は常磐線(日暮里~岩沼)を1968年9月末まで走っていたのでした。

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353.黒帯三国志

1956年1月  東宝 製作 公開   監督 谷口千吉

九州 正風館道場の柔道家 小関昌彦(三船敏郎)は 留学生試験を目指して上京し 苦難の末に合格した報告に帰り、恩師の道場を 卑劣な手段で乗っ取った 空手・拳法と対決する アクション映画です。

冒頭 小型蒸機が3輌の小さな客車を牽いて
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走り抜けて行きます。
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続く車内シーンでは 加茂紀久子(岡田茉莉子)が 拳闘クラブの小鉄(藤木悠)に絡まれたのを小関が助けます。
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同乗していた 拳闘クラブの伊庭八郎(佐伯秀男)に騙され 禁止されている私闘をする羽目になったので、小関は破門され公費留学生試験の為上京します。
その道中の 夜汽車の中で知り合った 人買いの譲次(田中春男)に騙され、北海道のタコ部屋で働かされますが 親分の情婦 お葉(久慈あさみ)のアシストで東京へ戻れます。

そして二度目の受験で 合格した小関は、報告の為 恩師 天路正純(佐分利信)の元を訪ねます。しかし道場は卑劣な方法で、空手拳法道場に乗っ取られ 天路は失明させられていました。
小関が戻ったことを聞いた伊庭は、弟の空手家 伊庭俊介(平田昭彦)と共に 小関を潰そうと呼び出します。

その頃 手配されている譲次を追う 形原四郎刑事(小堀明男)が、南屋敷駅へ到着した 混合列車から降りてきました。
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形原は 天路から経緯を聞くと 小関が向かった五所神社へ向かい、小関に助太刀して 譲次を逮捕します。雨の中 小関は伊庭俊介と 空手拳法道場生を倒して、双方の争いに 決着を付けたのでした。

翌日 南屋敷駅には 天路の娘で小関を慕う 静江(香川京子)や 紀久子を始め、かつての 正風館道場生達が大勢で 小関の見送りに駆け付けています。
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汽笛が鳴り
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1号機関車に牽かれた 混合列車が動き出すと、
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二人で並んで見送りしていた紀久子は 静江の背中を押して小関の元へ行かせます。

静江は走って小関に近付き「外国へ行ったら手紙を・・・手紙なんてどうでもいいわ!」と告げると、
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デッキから身を乗り出して手を振っていた小関は
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ホームの終端が近付いたので「危ない」と静江を制します。
ホーム端で立ち止まった静江は、去り行く小関に 精一杯手を振るのでした。
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小関を乗せた混合列車が、段々と小さくなってゆき エンドマークとなります。
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この見送りシーンは、倉敷市駅で行われた模様です。







PS.
  雑誌(東宝 1956年2月号)でロケ地は倉敷と分かりましたが、冒頭の軽便らしき小型蒸機列車の雰囲気から鉄道シーンは近くの井笠鉄道で行われたのでは?と最初は思いました。
 
  しかし6枚目の画像の様に描かれている社紋から、意外にも標準軌である当時の倉敷市交通局(現 水島臨海鉄道)でした。66年前とは言え現在の状況からは、全く想像だに出来ない様子です。

  1~3枚目の画像は N.N.LC33100 様 ・ 73おやぢ様 のコメントにより、軽便の井笠鉄道で撮影された様で、5枚目以後の画像では倉敷市交通局で撮影されて 明治期の雰囲気を出そうと東宝のスタッフがダイヤモンドスタックを煙突に取り付け 更にベルまで加えています。

  でもこの装飾は本作公開の前年 1955年5月公開の同じ東宝の(麦笛:監督 豊田四郎)撮影時に行ったのが先でした。その時の反響が良かったので、翌年の本作でも再使用した?
  しかし前作ではスタッフが取付けた後 ハンダ付けしたら熱で溶けてしまったそうで、窮余の策で 7枚目の画像の様に針金で補強したのでしょうか。

  この1号機関車は 1908年汽車会社製で 高野登山鉄道7号機となり、1916年東上鉄道へ譲渡され5号機 1920年に東武鉄道と合併され 同社の19号機となります。
  更に 1939年翌年開業する 胆振縦貫鉄道へ4号機として移り、1944年2月に当時の 三菱重工業水島航空機製作所専用線へと譲渡され 戦後は ⇒ 1947年水島工業都市開発 ⇒ 1952年倉敷市交通局と 所属名が変わりました。
  
  その後 1953年川崎車輛製 DC501内燃機導入から 仲間の蒸機が次々と廃車され、最後の1号機関車も DL予備機として残るも 1958年3月廃車となります。
  (最終的には 1961年12月に55万円で鉄くず業者に売却され、解体された結末ニュースが 鉄道ファン№15に載っています。)

  6枚目の画像で 4輪単車の古典的二重屋根の フハ92客車が映っていますが、1925年日本車輛東京で製作され 五日市鉄道へ納入されます。
  同期の5輌と共に 1940年南武鉄道との合併で 所属が変わり、更に1943年8月に揃って 職員輸送用に 三菱重工業 水島航空機製作所専用線へと 譲渡されました。
  五日市鉄道以来の 同期6輌の客車は 内燃機化後も使われましたが、1966年3月迄に 予備車のフハ92以外が廃車されました。

 
  1970年に現在の水島臨海鉄道となりましたが、軽便鉄道ではなく・廃止されそうでもなく・他社より早く無煙化・市営鉄道 等々のイメージからか昔の写真が非常に少ない鉄道です。



参考:(鉄道ピクトリアル№199)  (水島臨海鉄道設立50周年記念誌 その生い立ちとあゆみ)

  




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