
1959年9月 東京映画 製作 東宝 配給公開 監督 豊田四郎
自身の出生の経緯に悩んだ時任謙作(池部良)が、結婚後も妻の不貞や自身の行動に 苛まれながらも、夫婦が真から相思相愛に行き着く迄を描いた映画です。
四歳から兄妹から一人だけ離れて 祖父宅で育てられた時任は、同居している祖父の愛人だったお栄(淡島千景)との結婚を 兄信行(千秋実)に相談して 自分は祖父と母の間に出来た子だと 知らされ悩むのでした。
京都へ旅に出た時任は 直子(山本富士子)を見初め、友人の高井(北村和夫)や石本(中谷昇)の尽力もあって 結婚することが出来 京都に新居を構えました。
一方従姉の お才(杉村春子)の勧めで中国へ渡り 朝鮮の京城に移ったお栄から 窮状を知らされた時任は、現地まで迎えに行って 京都駅へ到着する場面で鉄道シーンがあります。
C51形蒸機らしきに牽かれた列車が 京都駅へ到着します。

2両目の二等車後部デッキから時任が降り立ち ホームを見回しますが、

誰も出迎えが無いので 赤帽を呼んで荷物を運んでもらいます。

続いて改札口へ行くと水谷(小池朝雄)が駆け付けて来て、遅れたことを謝り 赤帽と荷物を車に運びます。

待合ベンチ前で お栄に促された時任は、直子を紹介して 二人は挨拶を交わすのでした。

時任が京城へ行ってる留守中に 直子と従兄の要(仲代達矢)との間に間違いがあり(要の一方的行為)、直子の不自然な態度から これを聞き出した時任は 許す決心をするのでした。
その後病死した第一子の後 生まれた赤ちゃんを連れて、気晴らしに宝塚見物に お栄や高井と共に出掛けることになりました。
汽車の発車時刻が迫っているのに 便所に行ったまま戻らない直子に イラついた時任は、有料便所前にいた直子から 赤ん坊を抱え受けて急かします。
汽笛が鳴った後で 時任に遅れて改札を通った直子ですが

先に乗った高井とお栄もハラハラしています。

荷物も多くて、動き出した汽車のデッキへ飛び乗って 手招きする時任に あと一歩の所で追い付けません。
更に赤ちゃんの替え帽子まで落としてしまい、益々遅れてしまいます。

「次の汽車で来い」と時任に言われても、直子は「赤ちゃんのお乳が」と言って 何とか乗ろうとして走ります。

そして二人の手が触れ様と接近した時、

時任は直子を突き飛ばしたのです。哀れ 直子は一回転しながら倒れると

頭をホームに打ち付けて動かなくなりました。

前方のデッキからこの様子を見ていた高井は 飛び降りて直子の所へ駆け付け、3人を乗せた列車は何事も無かったかの様に、京都駅を去り行きます。

高井と駅員達も駆け寄って 直子を駅長室らしきのソファーへ寝かせました。
時任はデッキでお栄から「あなた突き飛ばしたわね」と詰られ、「自分でも何で あんな事をしたのか 分からない」と頭を抱えています。

次の向日町で降りた二人は 駅の鉄道電話で 大事にはならなかったと聞いて、京都駅へ戻る為 反対側のホームベンチに座ります。

お栄が「謙さんは 直子さんのことで 気に入らないことでもあるの」と聞くと、「苛立っていることが多いのは 僕の性格と 気候のせいですよ」と答える時任です。

遠くから汽笛の音が聞こえてくると お栄は立ち上がり 赤ん坊に向かって「ほ~ら汽車ポッポが来たよ」と呼びかけると、C51形らしきが牽く 上り列車が 長々と客車を牽いて入線して来ました。

PS.
本作に鉄道シーンの存在が分かったのは 偶然読んだ古い雑誌の映画記事に、(暗夜行路)の二条駅でのロケ状況の グラビアがあったからでした。
1914年完成の優美な二代目京都駅舎は 戦災に遭わなかったのに、1950年火災で全焼し 1952年に近代的な三代目駅舎となりました。そこで大正期の雰囲気の残る 山陰本線二条駅でのロケとなったそうです。
二条駅でロケが行われた日 定期列車の合間を縫って行われたロケでは 大正時代の服装の駅員・旅客・赤帽・女学生・・・のエキストラを 二百名以上を動員し、運び込んだ機材は 照明ライトだけでも総重量400kgになったそうです。
C51形蒸機らしきが牽く 二重屋根の古典的二等・三等車の装飾をした 撮影用特別列車は、大阪鉄道管理局 全面協力の元で運行されました。
二条駅での発車シーンの撮影は リハーサルから本番OKまで 都合5回も行い、定期列車が接近すると その都度 待避線へ列車を往復させて撮影したそうです。
時任がお栄を京城から連れ帰ったシーンから 直子が突き飛ばされて倒れるシーン迄 カメラを据えてから5時間に及ぶ撮影は、直子役の山本富士子が クルリと一回転して倒れ 頭を打ちつけ 皆が駆け寄ってカット!となりました。
ところが依然として 山本富士子が動かないので 豊田監督も心配して駆け寄ると、舌をペロっと出して「監督さんの声が聞こえなかったの」と お茶目な一面を見せた富士子さんだったとか・・・
そして時任達がUターンする隣の向日町駅(西大路駅は1938年・桂川駅は2008年開業なので 設定した大正末期では 京都の次の駅は向日町)は、同じく大正期の雰囲気の残る 山陰本線 嵯峨駅でロケが行われたそうです。
参考文献:(婦人俱楽部 1959年8月号)
自身の出生の経緯に悩んだ時任謙作(池部良)が、結婚後も妻の不貞や自身の行動に 苛まれながらも、夫婦が真から相思相愛に行き着く迄を描いた映画です。
四歳から兄妹から一人だけ離れて 祖父宅で育てられた時任は、同居している祖父の愛人だったお栄(淡島千景)との結婚を 兄信行(千秋実)に相談して 自分は祖父と母の間に出来た子だと 知らされ悩むのでした。
京都へ旅に出た時任は 直子(山本富士子)を見初め、友人の高井(北村和夫)や石本(中谷昇)の尽力もあって 結婚することが出来 京都に新居を構えました。
一方従姉の お才(杉村春子)の勧めで中国へ渡り 朝鮮の京城に移ったお栄から 窮状を知らされた時任は、現地まで迎えに行って 京都駅へ到着する場面で鉄道シーンがあります。
C51形蒸機らしきに牽かれた列車が 京都駅へ到着します。

2両目の二等車後部デッキから時任が降り立ち ホームを見回しますが、

誰も出迎えが無いので 赤帽を呼んで荷物を運んでもらいます。

続いて改札口へ行くと水谷(小池朝雄)が駆け付けて来て、遅れたことを謝り 赤帽と荷物を車に運びます。

待合ベンチ前で お栄に促された時任は、直子を紹介して 二人は挨拶を交わすのでした。

時任が京城へ行ってる留守中に 直子と従兄の要(仲代達矢)との間に間違いがあり(要の一方的行為)、直子の不自然な態度から これを聞き出した時任は 許す決心をするのでした。
その後病死した第一子の後 生まれた赤ちゃんを連れて、気晴らしに宝塚見物に お栄や高井と共に出掛けることになりました。
汽車の発車時刻が迫っているのに 便所に行ったまま戻らない直子に イラついた時任は、有料便所前にいた直子から 赤ん坊を抱え受けて急かします。
汽笛が鳴った後で 時任に遅れて改札を通った直子ですが

先に乗った高井とお栄もハラハラしています。

荷物も多くて、動き出した汽車のデッキへ飛び乗って 手招きする時任に あと一歩の所で追い付けません。
更に赤ちゃんの替え帽子まで落としてしまい、益々遅れてしまいます。

「次の汽車で来い」と時任に言われても、直子は「赤ちゃんのお乳が」と言って 何とか乗ろうとして走ります。

そして二人の手が触れ様と接近した時、

時任は直子を突き飛ばしたのです。哀れ 直子は一回転しながら倒れると

頭をホームに打ち付けて動かなくなりました。

前方のデッキからこの様子を見ていた高井は 飛び降りて直子の所へ駆け付け、3人を乗せた列車は何事も無かったかの様に、京都駅を去り行きます。

高井と駅員達も駆け寄って 直子を駅長室らしきのソファーへ寝かせました。
時任はデッキでお栄から「あなた突き飛ばしたわね」と詰られ、「自分でも何で あんな事をしたのか 分からない」と頭を抱えています。

次の向日町で降りた二人は 駅の鉄道電話で 大事にはならなかったと聞いて、京都駅へ戻る為 反対側のホームベンチに座ります。

お栄が「謙さんは 直子さんのことで 気に入らないことでもあるの」と聞くと、「苛立っていることが多いのは 僕の性格と 気候のせいですよ」と答える時任です。

遠くから汽笛の音が聞こえてくると お栄は立ち上がり 赤ん坊に向かって「ほ~ら汽車ポッポが来たよ」と呼びかけると、C51形らしきが牽く 上り列車が 長々と客車を牽いて入線して来ました。

PS.
本作に鉄道シーンの存在が分かったのは 偶然読んだ古い雑誌の映画記事に、(暗夜行路)の二条駅でのロケ状況の グラビアがあったからでした。
1914年完成の優美な二代目京都駅舎は 戦災に遭わなかったのに、1950年火災で全焼し 1952年に近代的な三代目駅舎となりました。そこで大正期の雰囲気の残る 山陰本線二条駅でのロケとなったそうです。
二条駅でロケが行われた日 定期列車の合間を縫って行われたロケでは 大正時代の服装の駅員・旅客・赤帽・女学生・・・のエキストラを 二百名以上を動員し、運び込んだ機材は 照明ライトだけでも総重量400kgになったそうです。
C51形蒸機らしきが牽く 二重屋根の古典的二等・三等車の装飾をした 撮影用特別列車は、大阪鉄道管理局 全面協力の元で運行されました。
二条駅での発車シーンの撮影は リハーサルから本番OKまで 都合5回も行い、定期列車が接近すると その都度 待避線へ列車を往復させて撮影したそうです。
時任がお栄を京城から連れ帰ったシーンから 直子が突き飛ばされて倒れるシーン迄 カメラを据えてから5時間に及ぶ撮影は、直子役の山本富士子が クルリと一回転して倒れ 頭を打ちつけ 皆が駆け寄ってカット!となりました。
ところが依然として 山本富士子が動かないので 豊田監督も心配して駆け寄ると、舌をペロっと出して「監督さんの声が聞こえなかったの」と お茶目な一面を見せた富士子さんだったとか・・・
そして時任達がUターンする隣の向日町駅(西大路駅は1938年・桂川駅は2008年開業なので 設定した大正末期では 京都の次の駅は向日町)は、同じく大正期の雰囲気の残る 山陰本線 嵯峨駅でロケが行われたそうです。
参考文献:(婦人俱楽部 1959年8月号)


