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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

348.暗夜行路

1959年9月 東京映画 製作  東宝 配給公開   監督 豊田四郎

自身の出生の経緯に悩んだ時任謙作(池部良)が、結婚後も妻の不貞や自身の行動に 苛まれながらも、夫婦が真から相思相愛に行き着く迄を描いた映画です。

四歳から兄妹から一人だけ離れて 祖父宅で育てられた時任は、同居している祖父の愛人だったお栄(淡島千景)との結婚を 兄信行(千秋実)に相談して 自分は祖父と母の間に出来た子だと 知らされ悩むのでした。
京都へ旅に出た時任は 直子(山本富士子)を見初め、友人の高井(北村和夫)や石本(中谷昇)の尽力もあって 結婚することが出来 京都に新居を構えました。
一方従姉の お才(杉村春子)の勧めで中国へ渡り 朝鮮の京城に移ったお栄から 窮状を知らされた時任は、現地まで迎えに行って 京都駅へ到着する場面で鉄道シーンがあります。

C51形蒸機らしきに牽かれた列車が 京都駅へ到着します。
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2両目の二等車後部デッキから時任が降り立ち ホームを見回しますが、
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誰も出迎えが無いので 赤帽を呼んで荷物を運んでもらいます。
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続いて改札口へ行くと水谷(小池朝雄)が駆け付けて来て、遅れたことを謝り 赤帽と荷物を車に運びます。
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待合ベンチ前で お栄に促された時任は、直子を紹介して 二人は挨拶を交わすのでした。
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時任が京城へ行ってる留守中に 直子と従兄の要(仲代達矢)との間に間違いがあり(要の一方的行為)、直子の不自然な態度から これを聞き出した時任は 許す決心をするのでした。
その後病死した第一子の後 生まれた赤ちゃんを連れて、気晴らしに宝塚見物に お栄や高井と共に出掛けることになりました。

汽車の発車時刻が迫っているのに 便所に行ったまま戻らない直子に イラついた時任は、有料便所前にいた直子から 赤ん坊を抱え受けて急かします。
汽笛が鳴った後で 時任に遅れて改札を通った直子ですが
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先に乗った高井とお栄もハラハラしています。
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荷物も多くて、動き出した汽車のデッキへ飛び乗って 手招きする時任に あと一歩の所で追い付けません。
更に赤ちゃんの替え帽子まで落としてしまい、益々遅れてしまいます。
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「次の汽車で来い」と時任に言われても、直子は「赤ちゃんのお乳が」と言って 何とか乗ろうとして走ります。
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そして二人の手が触れ様と接近した時、
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時任は直子を突き飛ばしたのです。哀れ 直子は一回転しながら倒れると
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頭をホームに打ち付けて動かなくなりました。
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前方のデッキからこの様子を見ていた高井は 飛び降りて直子の所へ駆け付け、3人を乗せた列車は何事も無かったかの様に、京都駅を去り行きます。
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高井と駅員達も駆け寄って 直子を駅長室らしきのソファーへ寝かせました。

時任はデッキでお栄から「あなた突き飛ばしたわね」と詰られ、「自分でも何で あんな事をしたのか 分からない」と頭を抱えています。
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次の向日町で降りた二人は 駅の鉄道電話で 大事にはならなかったと聞いて、京都駅へ戻る為 反対側のホームベンチに座ります。
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お栄が「謙さんは 直子さんのことで 気に入らないことでもあるの」と聞くと、「苛立っていることが多いのは 僕の性格と 気候のせいですよ」と答える時任です。
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遠くから汽笛の音が聞こえてくると お栄は立ち上がり 赤ん坊に向かって「ほ~ら汽車ポッポが来たよ」と呼びかけると、C51形らしきが牽く 上り列車が 長々と客車を牽いて入線して来ました。
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PS.
  本作に鉄道シーンの存在が分かったのは 偶然読んだ古い雑誌の映画記事に、(暗夜行路)の二条駅でのロケ状況の グラビアがあったからでした。

  1914年完成の優美な二代目京都駅舎は 戦災に遭わなかったのに、1950年火災で全焼し 1952年に近代的な三代目駅舎となりました。そこで大正期の雰囲気の残る 山陰本線二条駅でのロケとなったそうです。
  二条駅でロケが行われた日 定期列車の合間を縫って行われたロケでは 大正時代の服装の駅員・旅客・赤帽・女学生・・・のエキストラを 二百名以上を動員し、運び込んだ機材は 照明ライトだけでも総重量400kgになったそうです。
  
  C51形蒸機らしきが牽く 二重屋根の古典的二等・三等車の装飾をした 撮影用特別列車は、大阪鉄道管理局 全面協力の元で運行されました。
  二条駅での発車シーンの撮影は リハーサルから本番OKまで 都合5回も行い、定期列車が接近すると その都度 待避線へ列車を往復させて撮影したそうです。
  
  時任がお栄を京城から連れ帰ったシーンから 直子が突き飛ばされて倒れるシーン迄 カメラを据えてから5時間に及ぶ撮影は、直子役の山本富士子が クルリと一回転して倒れ 頭を打ちつけ 皆が駆け寄ってカット!となりました。
  ところが依然として 山本富士子が動かないので 豊田監督も心配して駆け寄ると、舌をペロっと出して「監督さんの声が聞こえなかったの」と お茶目な一面を見せた富士子さんだったとか・・・

  そして時任達がUターンする隣の向日町駅(西大路駅は1938年・桂川駅は2008年開業なので 設定した大正末期では 京都の次の駅は向日町)は、同じく大正期の雰囲気の残る 山陰本線 嵯峨駅でロケが行われたそうです。


  参考文献:(婦人俱楽部 1959年8月号) 

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347.キクとイサム

1959年3月 大東映画 製作 松竹 配給公開   監督 今井正

黒人混血児姉弟が 差別や からかいに遭いながらも、子供らしく逞しく 明るく成長する姿を描いた 社会派映画です。

川田キク(高橋恵美子)と イサム(奥の山ジョージ)の姉弟は、母親が病死したので 祖母しげ子(北林谷栄)に 乳飲み子時分から育てられています。
迫害に遭いながらも 元気に育つ二人ですが しげ子は行く末を案じ、二人を アメリカへの養子縁組の斡旋組織に 依頼する様になりました。
その結果 イサムが裕福な農家との 養子縁組成立となり、地元の下久野駅へ 皆でイサムの送り出しに向かいます。

イサムの写真を撮りに来た 斡旋組織の男(滝沢修)・イサムの担任の小野寺先生(織田政雄)・親切な隣家のきみえ(朝比奈愛子)・しげ子・イサム・キクの6人が、木造駅舎の下久野駅へ到着しました。
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待合室の木製ベンチで しげ子・イサム・キクの3人は、夏ミカンらしきを 揃って食べています。
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やがて「10:23発の郡山行列車の改札です この列車は郡山で 13:05発準急上野行に接続します」と構内放送があり、イサム以外の一同は 男から貰った入場券で 改札を通りホームへ出ます。
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遥か彼方から 蒸機牽引の列車が近付いて来ました。
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しげ子は「向こうさ行ったら生水飲むな」とイサムに伝えます。郡山行のサボを架けた オハ61形三等車の窓から、白人混血児らしき 二人を連れた男が「オーイここだ」と呼んでいます。
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男の後からイサムは乗車し、窓を開けてイサムは 最後の見送りを受けます。先生・きみえ・しげ子は 一言ずつ伝えますが、イサムに元気が無い様に見えたキクは 微笑んでペロっと舌を出して和ませます。
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機関車の汽笛が鳴ると、
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小野寺先生は お菓子の包みを手渡します。列車が動き出し 最後の挨拶を交わしていると、
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突然イサムが「オラ行くのヤンダ」と叫ぶや デッキへ走り 飛び降りようとします。
しかし男が抱きかかえ 阻止する中 汽車は加速し、
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キクは「イサム~」と言いながら 追い駆けますが 為す術なく 改札口前で立ち止まります。
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キクはイサムとの 永遠の別れとなった実感が湧いてきたのか、去り行く汽車へ向かって 泣き続けるのでした。
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悲しい旋律の BGMと共に、哀愁を帯びた汽笛の音が辺りに鳴り響いています・・・





PS.
  本作は何と言っても 水木洋子の脚本で成り立っています。今井監督達が選んだ姉弟役は 水木の構想に合わず、自らが捜して 荒川区の高橋恵美子と 横須賀の奥の山ジョージに 監督の反対を押しきって決めさせたそうです。
  そして未経験の素人二人を じっくり時間をかけて仕込み 自然体で演じられる二人に育て、脚本も二人の個性に合わせて書き換え 撮影に入ったそうです。

  大部分は現在の 福島県喜多方市岩月町入田付平沢(磐越西線喜多方駅の北方8㎞)の集落で撮影したそうですが、何故か鉄道シーンを撮影したのは 五日市線西秋留駅と思われます。(当ブログの検索コーナーから西秋留を参照されたし)
  従って磐越西線らしきの下久野駅を始め 10:23発郡山行列車・13:05郡山発上野行準急も、当時の時刻表に該当列車は無く架空設定です。

  8・10枚目の画像でC11形蒸機の一部が映っていますが、何らかの事情から磐越西線でのロケで無い為の措置と思われます。
  それでも撮影に向いた時間帯に当時2本しか走っていなかった蒸機牽引列車に郡山行のサボを架け、駅構内を下久野駅として装飾してイサムとの別れの場面の雰囲気は満点でしょう。


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346.馬喰一代

1963年8月 東映 製作 公開   監督 瀬川昌治

馬喰の仕事に誇りを持つ 片山米太郎(三國連太郎)が 男手一つで息子を育て 跡継ぎにと望みますが、中学校進学を希望する息子との 葛藤を絡めた 親子愛を描いた映画です。

片山の妻 ハルノ(藤里まゆみ)は 息子を生みますが 難産故に亡くなり、片山は一人で 息子大平(金子吉延)を育てます。
留辺蘂へ移住し 町の尋常小学校へ転校した大平は 片山が旅馬喰に 出掛けている間に、一度は片山の求婚願いを断った ゆき(本名はきく:新珠三千代)を母親として 暮らしていました。
やがて 尋常小学校卒業が近付いた大平は、跡取りを望む父親に反して 札幌の中学校進学を願い出ます。きくは母親の形見の 懐刀を売って進学資金を造り、肺病の身で送り出します。

片山と大平(仲尾純夫)は 眺めの良い山の上で 別れの儀式を執り行い 留辺蘂駅から 一人で札幌行の 汽車に乗ろうとすると、
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津田先生(岩崎加根子)を始め 級友達が見送りに来てくれました。
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津田先生は 大平一人だけなのを見て「お父さんは?」と尋ねると、大平は無言で 山の方を見ています。山の上で馬に乗り 遠く汽笛の音を聞いた片山は、麓の方へ馬を走らせます。

汽車が動き出すと
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大平は二輌目の客車の 後部ドアの所に立って、追い駆ける級友と 別れの挨拶を交わしています。
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やがて汽車は加速して、留辺蘂駅から走り去って行きます。
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遠く走る汽車の姿を 見付けた片山は 線路沿いの道に出ると、大平が乗る汽車を追い駆け
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馬を懸命に急かして走らせます。
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そして汽車に近付くと片山は、
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「大平よ~」と大声で呼びかけます。その声に気付いた大平は
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窓を開けて、父親の姿を確認するや「父ちゃ~ん」と言いながら手を振ります。
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片山は 激しく手綱を振りながら「おっ母の言ったことを忘れるな~」と言えば、「分かった~」と大平は応えます。
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やがて 線路と並行していた 道路が離れると、片山は馬を降りて 線路に上がります。その時には 既に汽車は、原野の中を 遠ざかって行くのでした。
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暫く 追い駆ける様に 線路内を走った片山は 立ち止まると レールに耳を当て、大平との別れを 悲しみながらも 区切りを付けている様に見え エンドマークとなります。





PS.
  101と番号が付いた C1形 小型蒸気機関車だけを見ると、ロケ地の新得町や新冠からは 何処の私鉄で撮影したのか 想像も付きませんでした。
  立山重工製の 産業用小型蒸機に 似た形があったことからと、101の番号からも 道東の 某炭礦鉄道が候補に挙がりました。
  そして大平が乗った 古典客車の窓下に記された 社紋からウラが取れたので、鉄道シーンのロケは 雄別炭礦尺別鉄道で行われたと思われます。

形式140 番号 101号機関車は 1942年 本江機械(後の立山重工業)製作の 40tC1形 小型蒸気機関車で、日本冶金工業大江山工場で ニッケル鉱輸送に当たっていました。
  ところが戦後 閉山となり 1948年10月に尺別へ来たそうです。C12形蒸機が3輌となった 1962年後も残りましたが、1964年8月末に 廃車となってしまいました。

  大平が札幌へ旅立つ 留辺蘂駅でのロケは、当鉄道の事務所・機関庫も在る中心駅の 新尺別で行われた模様です。
  駅名板と札幌行のサボ程度の装飾で 同級生の見送りを受けながら 新尺別を発車した列車は、終点の尺別炭礦駅方向へ向かって 進んで行ったのです。

  11番目の画像で 大平が乗る木製2軸の ハ3客車は 1894年三田製作所製で、川越鉄道開業から使われ ⇒ ⇒ 西武鉄道と社名変更がありました。その後1949年に 尺別鉄道へ譲渡されたそうです。(1922年日本車両製との資料もあります)
  明治期に製造された 2軸単車の 木造古典客車3輌と小型蒸機機関庫が組んでの ロケ用列車は、大正時代末期の 時代設定にピッタリの 映像が撮れたと思われます。

  大平が札幌へ向かった旅を 1925年の時間表から想像すると、留辺蘂 15:14 ―(14レ)― 翌朝4:28 札幌  この列車は 網走発 函館桟橋行の 直通列車で、当時は石北本線が開通していないので 中湧別・名寄・旭川経由です。尋常小学校の放課後、見送りに駆け付けたと想像する とピッタリですね。(8:58発 502レに乗り 名寄経由で、急行列車を使っても 21:14札幌着です)
  池田経由で 根室本線を使うルートもありますが、11:01に出発しても 乗り換え3回で 翌朝 6:54の到着でした。

  本作の公開前年に 専用鉄道から夢を抱いて 地方鉄道に転換した尺別鉄道ですが、その前から運行していた 旅客列車とダイヤも変わらず 全国版時刻表にも掲載されなかったので 訪れたファンの少なかった様ですね。
  乗車するには 1962年の地方鉄道転換後も 朝夕混合列車2往復のみの運行で、しかも国鉄尺別駅で 連絡運輸を行っていたのは 貨物のみであり 乗客は尺別駅から260m離れた 社尺別駅からしか 乗降出来なかったそうです。(驚きです!)
  
  その後 尺別炭礦は 1970年2月末に 閉山となりましたが、住民の引っ越しの為 4月15日迄 毎日4往復の 臨時ダイヤで運行して幕を閉じたそうです。


  参考文献 : [炭礦技術 23巻8号]  [尺別鉄道の50年 大谷晴彦著]  [鉄道ピクトリアル№173号]

  



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