
1955年3月 東宝 製作 配給 公開 監督 鈴木英夫
日本プロ野球 黎明期の ナンバーワン投手 澤村榮治(池部良)の、栄光と苦悩の 職業野球人生を描いた映画です。
澤村は大記録を打ち立てた日に 米井優子(司葉子)から花束と手紙を贈られ、二人の交際が始まりました。
後日 待ち合わせて 沢村が馴染みの豚カツ屋で昼食後 浅草へ行くと、二人の後方には 東京市電 吾妻橋線の電車らしきが走っています。

新聞の号外で(盧溝橋事件)勃発を知った澤村は、召集される予感がして 顔色が暗くなります。隅田川を下る船に乗ると 東武鉄道浅草駅が入る松屋百貨店や、吾妻橋上を走る 市電が見えています。

優子は「澤村さんは甲種合格でしたわね」などと言いますが、本人は「秋のシーズンで、野球とも当分お別れです」と出征を覚悟している様です。
学校の夏休みで帰省していた優子が 約束していた秋のシーズン開幕日に 姿を見せないからか、澤村は何時になく調子が悪く 敗戦の責任を負ってしまいます。
それは優子の父 米井徳造(清水将夫)が 東京で野球選手に夢中になっていることに怒り、帰省中に退学手続きをして 外出禁止としたからでした。
大阪遠征に向かう 夜行列車の三等車内で、

澤村は相棒の内堀捕手(千秋実)に「大阪へ行ったら、優子さんの家を訪ねてみようかと思う」と打ち明けます。
眠れない様子の 澤村が気になった藤本監督(笠智衆)は 自分の席へ内堀を移動させ、澤村に二席分を与えて寝させて 自分は通路に新聞紙を敷いて座るのでした。
夜明けの平野を走る汽車の姿が映り、

続いて 阪急電車芦屋川駅が映ります。

反対側のホームで 出征兵士を見送る一団がいる中、到着した電車から 澤村が降りて来ました。

仮設の様な駅舎の 改札口を出ると

(支那事変国債 郵便局売り出し)と 大きな看板が立つ横を抜けて、

芦屋の邸宅街にある 米井家を訪ねます。
丁度出て来た優子の叔父 米井光男(北沢彪)に「優子はここにはいない」と言われると、澤村は名も告げずに帰るのでした。
いよいよ入営前最後の登板となる 甲子園球場での阪神戦の試合前、内堀から「優子さんが来て、入口で待っている」と告げられます。
急いで行くと「父親に退学させられ、後楽園球場には行けなかったの」と謝られ、澤村は「除隊後に結婚しよう」とプロポーズします。
試合中に父 米井徳造は 甲子園の正面に 車を乗り付け、運転手に繰り返し 場内呼び出しをさせますが 優子は席を動きませんでした。
澤村が投げようとする時にも 呼び出し放送が流れ、気になったのか 阪神の伊賀上良平(武宮敏明)に 決勝ホームランを打たれてしまいます。
父親が 澤村からのハガキを全て隠していて 戦地で負傷したのを知った優子は、家出して 二等車に 思い詰めた顔で乗り

夜行の船便に乗り継いでいます。
そして長躯 大連にある 米井貿易事務所に 叔父の米井光男を訪ね、

澤村の入院先へ 行こうとしますが 叶いませんでした。
その後 帰還して除隊となった澤村ですが、手榴弾投げで肩を痛め

腕の負傷の影響で 極度の不調です。でも妻となった 優子の励ましもあって復活し、優子も懐妊が判明します。
しかしそんな澤村に再度の召集令状が届き、フィリピン戦線で戦死したのでした。
PS.
本作の撮影にあたって 野球経験ゼロの池部良を特訓して 伝説の投手澤村榮治らしく 足を高々と上げるフォームに 映る様に、

野球技術指導を 内堀保・中島治康・藤村冨美男・御園生崇男の 錚々たる面々に依頼しています。
後楽園球場部分のロケは 駒沢球場で行われたが、

甲子園球場は本物で

多数のエキストラを動員して 澤村のラスト登板場面を盛り上げていますね。

二人で 地下鉄浅草駅へ来た場面は カンカン帽に ユカタ姿の男や 新聞の号外売り等 1937年7月らしい雰囲気を出していますが、ロケ当時の都電 4000形4092が映っているのは仕方ないですね。
1937年当時は東京市電でしたが、1943年7月より東京都電になりました。
大阪遠征へ向かう 夜行列車シーンは、東宝映画製作にしては 若手製作の簡略・低予算セットに見えてしまいますね。
阪急芦屋川駅舎は 当ブログ(50.若い瞳)でも 同様の戦後復興期の バラック姿で登場しています。その後 1957年に新しい駅舎に 建て替えされています。
澤村からのハガキを隠されて 怒った優子が向かった 大連への道のりを 除隊した1940年の時間表で読んでみると
神戸 11:24 ―(急行7レ下関行)― 21:05 下関 下関港 22:30 ―(7便)― 6:00 釜山港 釜山 7:18 ―(7レ急行のぞみ号)― 翌 7:05 奉天 7:18―(18レ急行)―13:30 大連 実に50時間6分の長旅でした。
本作では 巨人の選手のまま 戦死した様に 描かれていますが 現実には、入団時の「一生面倒を見る」との 約束も守られず 1944年 2月にクビを言い渡されました。
澤村は失意の内に 三度目の召集となり、乗った輸送船が撃沈され 戦死となったそうです。
この為 戦時中・戦後の澤村家・優 夫人の生活は苦しく、1947年制定された 沢村賞授賞式を始め 一切の行事に優 夫人は 参加することが無かったそうです。
日本プロ野球 黎明期の ナンバーワン投手 澤村榮治(池部良)の、栄光と苦悩の 職業野球人生を描いた映画です。
澤村は大記録を打ち立てた日に 米井優子(司葉子)から花束と手紙を贈られ、二人の交際が始まりました。
後日 待ち合わせて 沢村が馴染みの豚カツ屋で昼食後 浅草へ行くと、二人の後方には 東京市電 吾妻橋線の電車らしきが走っています。

新聞の号外で(盧溝橋事件)勃発を知った澤村は、召集される予感がして 顔色が暗くなります。隅田川を下る船に乗ると 東武鉄道浅草駅が入る松屋百貨店や、吾妻橋上を走る 市電が見えています。

優子は「澤村さんは甲種合格でしたわね」などと言いますが、本人は「秋のシーズンで、野球とも当分お別れです」と出征を覚悟している様です。
学校の夏休みで帰省していた優子が 約束していた秋のシーズン開幕日に 姿を見せないからか、澤村は何時になく調子が悪く 敗戦の責任を負ってしまいます。
それは優子の父 米井徳造(清水将夫)が 東京で野球選手に夢中になっていることに怒り、帰省中に退学手続きをして 外出禁止としたからでした。
大阪遠征に向かう 夜行列車の三等車内で、

澤村は相棒の内堀捕手(千秋実)に「大阪へ行ったら、優子さんの家を訪ねてみようかと思う」と打ち明けます。
眠れない様子の 澤村が気になった藤本監督(笠智衆)は 自分の席へ内堀を移動させ、澤村に二席分を与えて寝させて 自分は通路に新聞紙を敷いて座るのでした。
夜明けの平野を走る汽車の姿が映り、

続いて 阪急電車芦屋川駅が映ります。

反対側のホームで 出征兵士を見送る一団がいる中、到着した電車から 澤村が降りて来ました。

仮設の様な駅舎の 改札口を出ると

(支那事変国債 郵便局売り出し)と 大きな看板が立つ横を抜けて、

芦屋の邸宅街にある 米井家を訪ねます。
丁度出て来た優子の叔父 米井光男(北沢彪)に「優子はここにはいない」と言われると、澤村は名も告げずに帰るのでした。
いよいよ入営前最後の登板となる 甲子園球場での阪神戦の試合前、内堀から「優子さんが来て、入口で待っている」と告げられます。
急いで行くと「父親に退学させられ、後楽園球場には行けなかったの」と謝られ、澤村は「除隊後に結婚しよう」とプロポーズします。
試合中に父 米井徳造は 甲子園の正面に 車を乗り付け、運転手に繰り返し 場内呼び出しをさせますが 優子は席を動きませんでした。
澤村が投げようとする時にも 呼び出し放送が流れ、気になったのか 阪神の伊賀上良平(武宮敏明)に 決勝ホームランを打たれてしまいます。
父親が 澤村からのハガキを全て隠していて 戦地で負傷したのを知った優子は、家出して 二等車に 思い詰めた顔で乗り

夜行の船便に乗り継いでいます。
そして長躯 大連にある 米井貿易事務所に 叔父の米井光男を訪ね、

澤村の入院先へ 行こうとしますが 叶いませんでした。
その後 帰還して除隊となった澤村ですが、手榴弾投げで肩を痛め

腕の負傷の影響で 極度の不調です。でも妻となった 優子の励ましもあって復活し、優子も懐妊が判明します。
しかしそんな澤村に再度の召集令状が届き、フィリピン戦線で戦死したのでした。
PS.
本作の撮影にあたって 野球経験ゼロの池部良を特訓して 伝説の投手澤村榮治らしく 足を高々と上げるフォームに 映る様に、

野球技術指導を 内堀保・中島治康・藤村冨美男・御園生崇男の 錚々たる面々に依頼しています。
後楽園球場部分のロケは 駒沢球場で行われたが、

甲子園球場は本物で

多数のエキストラを動員して 澤村のラスト登板場面を盛り上げていますね。

二人で 地下鉄浅草駅へ来た場面は カンカン帽に ユカタ姿の男や 新聞の号外売り等 1937年7月らしい雰囲気を出していますが、ロケ当時の都電 4000形4092が映っているのは仕方ないですね。
1937年当時は東京市電でしたが、1943年7月より東京都電になりました。
大阪遠征へ向かう 夜行列車シーンは、東宝映画製作にしては 若手製作の簡略・低予算セットに見えてしまいますね。
阪急芦屋川駅舎は 当ブログ(50.若い瞳)でも 同様の戦後復興期の バラック姿で登場しています。その後 1957年に新しい駅舎に 建て替えされています。
澤村からのハガキを隠されて 怒った優子が向かった 大連への道のりを 除隊した1940年の時間表で読んでみると
神戸 11:24 ―(急行7レ下関行)― 21:05 下関 下関港 22:30 ―(7便)― 6:00 釜山港 釜山 7:18 ―(7レ急行のぞみ号)― 翌 7:05 奉天 7:18―(18レ急行)―13:30 大連 実に50時間6分の長旅でした。
本作では 巨人の選手のまま 戦死した様に 描かれていますが 現実には、入団時の「一生面倒を見る」との 約束も守られず 1944年 2月にクビを言い渡されました。
澤村は失意の内に 三度目の召集となり、乗った輸送船が撃沈され 戦死となったそうです。
この為 戦時中・戦後の澤村家・優 夫人の生活は苦しく、1947年制定された 沢村賞授賞式を始め 一切の行事に優 夫人は 参加することが無かったそうです。


