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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

330.塩狩峠

1973年12月 松竹 配給 公開   松竹 & ワールド・ワイド映画 提携製作    カラー作品   監督 中村登

裁判所の判任官の書記から 鉄道職員に転職した永野信夫(中野誠也)が、1909年 乗っていた客車の 暴走事故に際して 我が身を犠牲にして 乗客を救う迄を描いた映画です。

冒頭 1909年名寄での鉄道員キリスト教青年会シーンに続いて 809の番号を付けた蒸機の正面が映り、
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続いて 列車に連結すべく バックで移動する 809の様子が映ります。
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二輌の客車が停車する 名寄駅のホームでは、親子が乗り込む後方の オープンデッキ前で
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永野と三堀峯吉(新克利)に対する 鉄道員同士の見送りが行われています。
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時計を見ていた 駅長らしきが
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片手を揚げて出発合図を送ると 汽笛を鳴らして 混合列車は動き出し、永野はオープンデッキから ずっと手を振っていますが 連れの三堀は寒いからか直ぐに車内に入りました。
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永野達が乗った車輛の 前隣の客車は、前半分が青帯の二等車で 後半部が赤帯三等車の様です。タイトルとクレジットに続いて、座席に座ると三堀は「永野さんは肺病にカリエスの病人と結納を挙げるんだってね」などと不思議がっています。
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その後 離れた席にいた老人が近寄り、「永野の坊ちゃんでは」と話し掛けます。永野は「六造さん」と応えると、六造(永井智雄)は 息子の虎雄と永野の小さい頃の話を懐かし気にします。
札幌へ向かう永野に対して 六造は「私は士別で降りますので」と言うや降りていきました。士別で降りた六造は ホームから話し掛け、窓を開けた永野に「虎雄は今札幌にいます」と告げたところで 寒いからと三堀は窓を閉めてしまいます。
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次に永野が 1889年夏に裁判所の書記から 幼馴染の吉川修(長谷川哲夫)の誘いで 札幌の北海道炭礦鉄道に転職した場面に移り、一か月後に 和倉礼之助(近藤洋介)主任に 今夜家に来いと呼ばれた話を 吉川に 302蒸機の前でする場面があります。
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それから 話ながら歩いて行く二人の背後に、移動して行く 302蒸機が映っています。
その後 嵐の晩に徹夜警戒する場面では、205蒸機が 非常警笛を鳴らして走るシーンもあります。
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ひねくれ者の三堀は、徹夜組を志願した永野を変人視しています。

中盤 その年の冬 809蒸機が載った転車台を 三人の雇員が重そうに押している所へ出くわした 永野が手伝おうとすると、
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三堀が止めさせて「素手で鉄棒を触ったら手の皮が貼り付いてしまいネッパルぞ!」と教えてくれます。

吉川の妹 ふじ子(佐藤オリエ)を 幼い頃から思っていた永野は 病で寝たきりのふじ子が キリスト教信者と聞き、更に東京から来た 伊木一馬(滝田裕介)伝道師から教えを受けて キリスト教の信者となります。
1900年の春 給料袋を盗んだ三堀を永野はかばい、列車が近付く中 線路を歩いて三堀の母と共に和倉宅へ謝罪に行きます。
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上司として責任をとって 官営鉄道に転職する 和倉主任に付いて、三堀と共に旭川へ引っ越し そこで洗礼を受け 教会の日曜学校教師にもなります。

1906年秋 全国の大手私鉄が国有化され 405蒸機の前で 人々が祝っている様子の場面があり、
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その日吉川の家で 二階から自力で階段を降りて来た ふじ子の姿に永野は接し 更に快復した3年後の冬に 婚約することになります。
そして 1909年2月28日の、冒頭場面に続きます。 いつもなら後補機が付く 名寄発札幌行列車が、この日は牽引車輛が少なく単機でした。
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塩狩峠の上り勾配の途中で 衝撃音が響き、連結器が外れた客車は 停止した後バックして行きます。
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外れた最後部客車に気付かぬ機関車は、坦々と峠を登って行きます。
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前方のデッキへ出た男が「大変だ!汽車が離れたぞ!」と叫ぶや、車内はパニックに陥り 永野と三堀は後ろのデッキへ走ります。
永野がハンドルを回して 手動ブレーキを掛けますが、客車は一向に減速しません。
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遂に覚悟を決めた永野は、ふじ子のことを思いながらも飛び降り 身を挺して乗客を守ったのでした。
林間に停車した車輌から降りた三堀は、教えを実践した永野への感動とショックで雪に頭を突っ込んでしまいます。
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やがて春が訪れた頃 ふじ子は、兄と永野の母 菊(岩崎加根子)と共に 事故現場へ向かいます。慰霊碑と向き合うと、
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峠の遥か下から 蒸機が汽笛を鳴らしながら登って来るのでした。
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PS.
 本作は 三浦綾子の(塩狩峠)を原作として、ビリーグラハム 福音伝道教会の 映画部門 ワールド・ワイド映画と 松竹映画の提携製作映画です。それ故宗教色の強い映画ですが、鉄道シーンは目を見張るものがあります。

 主な鉄道シーンのロケは、1973年3月と夏に 三菱石炭鉱業大夕張鉄道で行われました。それに先立って チキ1形長物車の 上部に取り付ける様にした、オープンデッキ・二重屋根の古典客車を2輌製作しています。
 蒸気機関車は 大夕張鉄道名物で 9600形蒸機でありながら 炭水車はC56形タイプの №3と4を使って、デフを外し ヘッドライト周囲に 金網等の装飾を施し205・302・405・809のプレートを付け替えて映したそうです。

 古典客車については 牽引走行は可能でしたが、乗客を乗せての走行は出来ないので 車内シーンはすべて 松竹大船でセット撮影したそうです。
 それでも ハイライトの塩狩峠走行シーンを始め 大夕張鉄道の大夕張炭山駅を札幌駅・遠幌駅を名寄駅に見立てて、ロケを行ったある朝などは 零下29℃まで冷え込んだ中での 過酷なロケが三日間続いたそうです。

 ラストシーンで 宗谷本線の塩狩峠を 盛大に黒煙を噴き上げながら登って来る蒸機は、当時旭川区所属のC55形蒸機と思われます。
 

 大夕張鉄道にしてもC55形蒸機にしても 消える前のグッドタイミングで 製作された映画ですね。 小生は公開2年後に 中野で鑑賞した時は、見事な雪中鉄道シーンに 感動した記憶が有ります。


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329.縮図

1953年4月 新東宝 配給 公開   製作 近代映画協会  監督 新藤兼人

東京佃島の 靴直しの貧困家庭に育った銀子(乙羽信子)は 千葉の芸者置屋に売られ、牡丹の名で働くが 虐待され 越後高田の置屋へ斡旋されたが 土地の旦那に裏切られ等々 悲しい女の一生を描いた映画です。

中盤千葉の置屋主 磯貝(菅井一郎)に 千葉医大の医師 栗栖(沼田曜一)との仲を裂かれた銀子は、周旋屋 桂庵の山田(殿山泰司)から 越後高田から迎えが来ると 斡旋されて 夜汽車で向かいます。
雪原の単線を 淡々と進む蒸機が牽く 客車列車が映り、
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続く車内シーンでは、眠れない銀子が、ぼんやりと 暗い窓の方に向いています。
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窓からは深く積った、雪景色が延々と続いています。
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すると夜汽車の車内シーンに再び戻り 迎えにきた女(清川玉枝)がミカンを渡し、
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「三・四か月大人しく働いていれば、きっと誰か 面倒を見てくれる人がみつかるよ」と話し「今頃町は選挙で大騒動さ」と続けます。

高田の町で 寿々龍と言う名で お座敷に出た銀子は 倉持(山内明)という 地元で一二の旦那に見初められ、前借を始末してくれて 月々の手当てまで付けて 当分は駅近くの鈴亭で会うことになります。
夜の高田駅を出発した D51 404 蒸機が牽く客車列車が
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轟音と共に通過して行くと、
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右手にある 鈴亭旅館二階の窓から 銀子が列車を見ていました。
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その後 倉持は結婚しようと、持ち出した 母親の指輪を渡したりします。しかし母親(英百合子)が乗り出し、「芸者を嫁に迎えることは出来ない」と通告されてしまいます。
尚も倉持は 銀子の気を引く様なことを 言いつつ、ある日の新聞で 名家令嬢との結婚を知ることとなる銀子でした。






PS.
 1枚目の画像は 雪原の単線を単機で進む 列車を映していますが、信越本線らしく 単線とはいえ ハエたたきの通信線の多いこと然りですね

 D51 404 蒸機は ロケ当時、直江津区に所属して、信越本線 長野迄の急勾配難所区間を 走っていた様です。
 
 本作公開後の 1953年5月に 長野工場で、重油併燃装置を取り付けて パワーアップしているので 改造直前の姿です。

 本作の時代設定は 大正末期とも考えられますが、1月21日に公示されて 投票日が 2月20日だった 第1回普通選挙とも言われた 第16回衆議院議員総選挙が行われた 1928年2月として銀子が乗った列車を推察します。
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 時間表 1930年版から見ると 夜行列車で行きましたので、上野 22:40 ― (米原行 603レ) ― 8:50 高田 が考えられます。(当時は 24時間制ではなく、午前細字・午後太字で表記)

夜間ロケで映した D51 404 蒸機が牽く列車は、上野始発の 315レ柏崎行が 高田19:27発なので想定されます。
 1953年当時は 意外にも 新井始発で 直江津行921レ(高田18:42)と 高田20:11始発の直江津行の923レが 前後して気動車キハ42000形・キサハ40800形(共に直江津区)で運行されています。


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