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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

313.越後つついし親不知

1964年5月 東映 製作 公開   監督 今井正

越後杜氏として 冬場に伏見の酒蔵で働く 瀬神留吉(小沢昭一)が、同郷の佐分権助(三國連太郎)に 妻を犯され 懐妊したことから 悲劇に突き進む道程を描いた映画です。

1937年12月 12日 瀬神と共に大和酒造で働く佐分の元に 母親危篤の電報が届き、佐分は米原で乗り継いだ北陸本線の夜行列車で親不知へ向かいます。
海沿いの難所らしき場所を 走る列車が映り、
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途中雪で遅れて昼過ぎに親不知へ着いた列車から降りた 佐分の横をC57形蒸機牽引列車が 追い越して行きます。
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佐分はこの後 実家へ急行するのではなく 飲み屋に寄って 猥談しながら飲酒し、歌合部落迄の 山道で偶然会った 瀬神の妻 おしん(佐久間良子)を強姦する悪党三昧ぶりです。

ここから おしんの 苦悩が始まりますが、その折々に 生い立ちが語られます。父親の記憶は無く、母親に連れられ 越後から行商に行く道中での 三等車内の様子が映っています。
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佐分は伏見に戻ると 瀬神に「村では、おしんと菰の買い付けに来る佐藤(佐藤慶)が寝たと噂だ」と嘘を吹き込み、夫の方も眠れなくなるほど 苦悩させるのでした。

正月も帰省できない程 忙しい杜氏の仕事も 春になると漸く終わり、瀬神は佐分と同じ汽車で 親不知へ向かいます。座席についても、瀬神は噂が 気になっている様子です。
佐分は相変わらず 三等車の車中でも 飲み終えた酒瓶を窓から放り棄て、
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瀬神が辞退した駅弁まで ガツガツ食い終わると 瀬神の顔の方へ汚い足を延ばす 悪態三昧なのです。
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翌朝漸く 汽車は親不知駅に到着し 下車した二人が歩く横を、C57形蒸機牽引列車が 黒煙を噴き上げながら追い越して行きます。
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二人の背後に映っている 親不知駅舎は、現在でもあまり変わっていない木造駅舎です。

恐れていた妊娠が 現実のものとなった おしんは 隣の青海駅近くにある産婆の元へ行き、12月に身ごもったことを聞いて 佐分権助の子だと確定したので呆然とします。
今後の事を考えると 目の前が真っ暗となり、よろける様に親不知駅の改札口を出て来る おしんの姿が映る場面があるのでした。
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PS.
 最初の鉄道シーンである 雪が舞い散る 海沿いの単線を走り行く場面は、下り 北陸本線市振駅を出発して 高之平トンネルの先にある 先ヶ鼻付近でしょうか。

 作中では 昼過ぎに伏見を出発し 東海道本線の上り列車で 米原まで行って、北陸本線の列車に乗り換えて 親不知へ向かったと ナレーションが入ります。時代設定は 1937年12月です。 ピッタリの時間表はありませんが、佐分権助の旅程を 1934年の汽車時間表と 1940年の時間表で見ると ほぼ同じなので 1940年版で紹介します。
 奈良線 桃山 14:19 ―(620レ)→ 14:31 京都 15:24 ―(大阪始発716レ) ― 17:09 米原 23:23 ―(507レ) ― 9:17 親不知 【接続の良い米原 17:14 ― (723レ) ― 23:59 富山行に乗っても 結局翌朝 6:02発の 507レに乗り継ぎとなります】

 上記の様に 米原で直ぐに乗り継ぐと 富山で夜明かしすることになり、長時間待って 507レに乗ることになります。(遊び人の佐分は 京都か米原の遊郭に寄り道するつもりで 昼過ぎに出発したのか?)
 桃山 12:52 ― (618レ) ― 13:04 京都 13:46 ― (505レ青森行) ― 0:01 親不知 これが昼過ぎに伏見を出発して普通列車での最速ルートですが、到着が真夜中になってしまい映画と合いません。

 驚くことに ロケ当時の 1964年の時刻表でも京都 23:04 ―(新潟行523レ)― 0:30 米原 0:39― 9:07 親不知と 殆ど昔と変わりありません。
北陸本線 親不知駅前後区間は 断崖絶壁が海辺まで迫った地形で、開通当初から地滑りや雪崩れ・落石による 運行停止や脱線事故が多発する難所として有名でした。現在では複線電化工事に合わせて 長大トンネル等で山側に線路を移設して 近代化を果たしています。


 悪党三昧の佐分権助は瀬神夫婦を不幸のどん底へ突き落しますが、観客は最後の場面で少しは留飲を下げることが出来たでしょう。



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312.ガラスの中の少女

1960年11月  日活 製作 公開   監督 若杉光夫

中学の同級生だった 沖中靖代(吉永小百合)と広江陽一(浜田光曠 後に浜田光夫)が 偶然の出会いから 付き合うが、周囲の反対から 孤立し 悲しい結末へと進んで行く青春映画です。

中卒から働く 町工場の配達途中に 偶然地下鉄丸ノ内線 四ツ谷駅で出会った二人は、甘味屋で話した後 四谷駅へ戻る途中 二人の背後を 都電3系統700形702が通っています。
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その後 偶然を装って靖代に会いたい広江は 雨の降る日に 配達を頼まれたので、国鉄中央快速線の101系電車が停車している 四谷駅が見える
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地下鉄丸ノ内線 四谷駅前で待ち伏せするのでした。

一方靖代の方も 地下鉄四ツ谷駅 改札口を出た所で、広江がいないか 捜している様子です。
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それでいて出会えば「今日は忙しいの」「でも少し位ならいいの」とお互い言い出して、結局長話するのです。
休日後楽園遊園地方向から地下鉄後楽園駅へ向かって走る二人の右手に、地下鉄丸ノ内線の電車が高架線を走る姿があります。第三軌条方式で集電しているので、一見非電化路線の様に見えます。
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それから靖代の両親に 交際が知れることとなり、中学時代のラブレター事件以来 広江を嫌う父沖中杉太郎(信欣三)は 交際禁止として靖代の登下校時に タクシーへ同乗させたりします。
会えなくなった広江は 待ち合わせの手紙を 母親里子(轟夕起子)に託しますが 焼かれてしまい、哀れ広江は 午後一時の待ち合わせ時刻から夕刻まで 地下鉄丸ノ内線四ツ谷駅前で待ちぼうけです。
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そして 父 沖中杉太郎が 北海道の大学に転任することになり 引っ越し準備で忙しい最中に、靖代は父親に嘘をついて 仕事中の広江を呼び出し「遠い静かな所へ行きたい」と二人で出掛けます。
続いて 小田急電鉄小田原線の多摩川橋梁を 2400形4連が走行する姿が映り、
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車内では二人が無言で座っています。
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そして靖代は「父親の転任で北海道へ引っ越すことになった」と広江に告げるのでした。
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PS.
 都電3系統は品川~飯田橋の路線で、広尾車庫所属の 1942年木南車輛製の半鋼製10m級 少数派小型車 700形を集中配置されていました。その後 700形は1966年に廃車となり、3系統も翌 1967年12月に廃止されました。

 地下鉄丸ノ内線四ツ谷駅は、1959年3月の霞が関~新宿の開通に伴い開業しました。ですから ロケは開業後 一年少々なので、駅は新しく 改札ラッチ(シマ)もステンレス板がピカピカですね。
 4枚目の画像で 左側は現在の東京ドームの場所です。右手の空地は 現在東京ドームシティのジェットコースターや温泉施設ラクーアがある所です。後楽園駅前後は 高低差が大きいので、この付近は 高架線区間の前後が トンネル区間です。

 5枚目画像の 地下鉄丸ノ内線四ツ谷駅舎は 下を交差する国鉄線が 谷底を走る関係上、地表面レベルにあるのですが 丸ノ内線は国鉄線路の上を交差しています。駅舎はリニューアルされていますが、基本構造は現在も同じです。

 小田急電鉄2400形は本作公開と同じ1960年1月から運用開始された当時の新鋭車輌(HE車)で、4輌固定編成でいて両端の制御車クハ 2450形は15.97m・中間の電動車デハ 2400形は19.3mと3m以上も全長が違っていて 現在のホームドア時代には適していませんね。
 これは当時の 各駅停車駅のホーム長が 70mしかなく、定員を多くしたい構想から この様な設計となった様です。続く車内シーンのロケに協力した 小田急電鉄としては、新車のハイエコノミーカー 2400形の走行シーンを 入れることを希望したのでしょうか。
 

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