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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

294.愛と死をみつめて

1964年9月 日活 製作 公開   監督 齋藤武市

大阪で不治の病と闘う小島道子(吉永小百合)と 彼女を愛情を込めて励ます 東京の高野誠(浜田光夫)が、交わした書簡集を元にした恋愛闘病映画です。

序盤 夏休みに2年ぶりに道子に会いに来た高野は、大阪駅のホームで ビール売りのアルバイトを始めます。11番線で停車中の列車沿いに歩きながら、
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1杯100円で生ビールを窓越しに売って行くのでした。
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浪人中に初めて会ってから2年間 手紙を数多く交わしていたので二人はすぐに打ち解け、日中バイトをして夕方から道子の病室で過ごし そのまま泊まる毎日の様です(個室の一角に家族用のベットが在る部屋です)

続いて6番線でビール売りをしていた
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高野が帰ろうとすると「夕方になるといつもいなくなる 怪しいぞ」と仲間から言われますが、「気にしない」と言いながら走って去ります。
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その背後ではキハ82系気動車特急らしきが、排煙を屋根から吹き出しながら 発車して行きます。時間帯からして、13:40発 博多行3D特急みどり号と思われます。

その後病状が進んだことから 別れ話を切り出す道子に、怒り出した高野ですが 和解となります。この場面の次に南海電鉄本線と高野線の電車が、難波駅から大阪球場の横を同時に出発して行くシーンがあります。
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そしてとうとう 顔の左半分を切除する手術を医師から告げられ、父 小島正次(笠智衆)と高野が賛同します。結論は保留し、父を見送りに大阪駅のホームへ同行します。
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10番線の客車窓から 父は別れの笑顔を見せ、
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去り行く父に道子と高野は笑顔で手を振って見送ります。
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その後車内では、娘の先行きを想像した父親が 顔を手で覆って忍び泣きです。
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手術前日「眠れないので信州の山へ行く」と手紙を書いた高野が 夜行列車で山へ向かう場面では、道子のことを思ってか 座席で眠れない様子の高野が映るシーンがあって 美しい山々のシーンへと続きます。
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PS.
 亡くなった原作者でもある大島みち子さんが 吉永小百合の大ファンであったので 河野 實氏によって出版直後に吉永小百合の元へ送られ、感銘を受けた吉永が会社に願い出て 映画化と主演が実現したとの話もあります。

 原作本は160万部を記録したベストセラーとなり 先にTVドラマ化された作品も大好評だったので、映画各社も映画化を目論みますが 当然日活に決まり 吉永も彼女の実家を訪問するなどして役作りに熱を込めて撮影に臨んだそうです。

 本作公開一か月前の8月18日から4日間の関西ロケで、鉄道シーンの撮影も行われたそうです。初日は東京 8:00発の2001M特急第一富士の展望車で 14:30大阪着と記載されているので、1号車パーラーカーの開放室か 4人区分室を利用した様です。

 当時の吉永小百合人気と監督との打ち合わせを考えれば、4人用区分個室の方を選んで 会社が奢ったと思われます。
 そしてホテルに荷物を置いて、早速 堂島にあった阪大病院の隣のビル屋上で撮影を開始したそうです。映画撮影が過密日程だった当時では、ごく普通のことだった様です。

 3日目に大阪駅前に於ける炎天下での街頭ロケの後、大阪駅での3種鉄道シーンを集中撮影したそうです。当時既に大阪始発の旧型客車列車は数少なく、エキストラを乗り込ませて 一発勝負の撮影を予定した様です。

 しかし父親の小島を見送る場面ではNGとなり、笠智衆さんは次の三ノ宮で降りて急ぎ戻って撮り直したとか。想像すると大阪 13:18発 641レ宇野行に乗り、三ノ宮 13:54発 856M京都行で 14:19大阪着。そして 14:35発 325レ広島行で撮り直してOKとなった?

 

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293.黒い画集 ある遭難

1961年6月 東京映画 製作 東宝 配給 公開   監督 杉江敏男

山で遭難死した岩瀬秀雄(児玉清)の姉真佐子(香川京子)が 弟の死に疑問を感じ、従兄の槙田二郎(土屋義男)に江田昌利(伊藤久哉)と 慰霊登山に同行調査を頼んで 遭難の真相に迫るサスペンス映画です。

遭難した3人のパーティでは初心者の浦橋吾一(和田孝)が遭難の詳細を書いた 追悼文が雑誌「岳人」に載り、前半はこの文をなぞる様に 浦橋の回想で遭難に至る過程が映ります。
その途中で寝静まった2等寝台車の通路を 巡回する列車給仕が映ります。
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そして3段式寝台中段左右に岩瀬と浦橋が横になりながら酒を飲み、下段の江田が「混雑を避けて睡眠をとる、全て初心者の君の為だ」と浦橋に告げます。
その後皆より先に寝た浦橋が 夜中に目が覚めてトイレに行くと、
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デッキで岩瀬がタバコを吸っていました。「酔ったので風に当たっているんだ」と言いますが、江田から知られたくない秘密を仄めかされたからでした。

真佐子から調査を依頼された登山家の槙田は 当初申出を一笑に付しますが、追悼文を読むと了承して 初冬に江田と共に鹿島槍を目指すことになりました。
新宿駅下り甲府・長野方面の長距離列車ホームに、
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22:45発準急穂高3号 長野行列車が発車を待っています。

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2等車の席取りの為先に来た槙田が、窓を開け顔を出して 江田を呼んで案内します。
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既に混み合っている車内へ入り窓側の席へ呼ばれると、
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座席には例の追悼文が掲載された「岳人」が置いてありました。やがて出発するとウイスキーを飲み交わしながら、槙田は「秀夫は寝台車に乗せて頂いたそうで」と礼を言いつつ江田を持ち上げてます。
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夜半に江田が目を覚ますと、向かい席の槙田がいません。網棚のリュックは有り、括られた生花が揺れています。江田は不安を感じてか、前方の寝台車の方へ行ってみます。
2等寝室と書かれた扉を開けると
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3段寝台の通路に槙田が立っており、江田の登場を予見していたかの様に「秀夫のやつ楽だったでしょうに 心遣いをして頂いたのにだらしのないヤツだ」と呟いています。
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その後 409レ準急穂高3号は早朝 4:57着の松本で下車し 5:08大糸線始発1レに乗り換えて 6:12信濃大町に到着し、大谷原までバスに乗り そこから鹿島槍を目指して登るのでした。 (現在では信濃大町駅~大谷原登山口の路線バスはありません)







PS.
 中央本線下り新宿22:45発 準急長野行(松本~長野は普通列車)の列車は、準急アルプス号時代から 寝台車とロ座が連結されていました。本作公開の前年1960年4月下旬より準急穂高3号と改称されています。
 当初は並ロ座だけの優等車が1956年11月よりナハネ10形寝台車が加えられ、1958年2月より車体中央にデッキを設けた 独特な形のナロハネ10形2等・3等合造寝台車へと変更されました。(1960年7月より 1等・2等合造寝台車)

 1枚目と最後の画像から留置中のナロハネ10に暗幕を掛けて ロケが行われた様です。
 何れにしろ給仕が巡回する寝静まった寝台で、酒盛りし談笑する様子は 寝台車と山男の印象を悪くしますね。

 6~8枚目の画像はエキストラを入れてのロケかセット撮影の様に見えます。走行中の場面では風を送って花を揺らしていますが、離れた席のリュックから垂れた紐は揺れていません。
 また準急穂高3号の3号車ナハ10形普通車に乗車したなら 江田が寝台車である1号車へ行くには2号車オロ36形1等車を通り抜ける必要があり、作中の様にチョット気軽に隣の車輌へといった 行動はとれないと思われます。

 寝台車の付いた中央本線夜行準急客車列車は その後 穂高・上高地と名称変更され、更に1966年3月より急行列車となりましたが 1968年のヨンサントウで消滅となりました。

本作は1960年8月17日~9月1日に前半の夏山現地ロケを行い 翌年3月24日~4月11日に天候に悩まされる早春現地ロケを 寒さと闘いながら行い、1961年の夏山シーズン直前に 迫力ある本格的山岳映画の公開に至ったそうです。

 


 


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