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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

289.心臓破りの丘

1954年1月 大映 製作 公開   監督 木村恵吾

郷土の期待を担って出場したオリンピックで惨敗して自信喪失となったマラソンランナー上田栄三(根上淳)が、周囲の励ましで捲土重来を期して出場したボストンマラソンで優勝するまでを描いたスポーツ映画です。

とある山間の小さな駅へ到着する花室鉱山新所長 伊谷市松(清水将夫)を出迎える社員達の前に、
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軽便蒸機が牽引する列車が到着し 伊谷一家が降りて来ました。
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ところが慧海和尚(滝沢修)が出迎えたのは上田でした。客車内から降りてこないので機関士で上田の父上田朝治(宇野重吉)に尋ねると、機関室の隅に乗っていて恥ずかしそうに降りてきました。
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上田が勤める花室鉱山所長の娘で幼馴染の伊谷夏子(久我美子)は練習再開を願い 励ましますが、上田は自信喪失して国体にも参加せず 仕事は再開しますが
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一向に練習する様子が無いままです。
上田を応援する慧海和尚に旧知の金田監督(見明凡太郎)への紹介状を書いてもらった夏子は、夜行列車で上京すると
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見事監督を説得し連れて帰ってきました。
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上田は尊敬する金田監督の励ましもあったが、何より祖母 もよ(北林谷栄)の願いから練習を再開します。慧海和尚の協力でタイムも伸び、父親が運転する列車と競う様に走ります。
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ところが上田に抜かれた父 朝治は、抜き返そうと助手に釜焚きを急かします。
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助手が前方を注意しますが小雪沢駅を通り越し、とうとう保線作業員を撥ねる事故を起こしてしまいました。
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ボストンマラソンのゴール手前の急坂に似た坂があることから ボストンマラソン選手選考大会が地元で行われ、花室鉱山の町を挙げての応援を受けて走った上田は 終盤へばって5着でしたが 補欠として渡米することになりました。
地元の駅では昇り旗が立って 上田の盛大な壮行会が開かれ、
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オープンデッキに立つ上田に夏子がカバンを渡すと
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謹慎中の朝治が機関士に頼んで
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内緒で運転する2号機関車が 汽笛を鳴らして出発して行きました。
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晴れてボストンマラソンに出場した上田は、遠く真夜中の日本からの熱い応援もあってゴール前の急坂を制して 新記録で優勝します。
その後 町では慧海和尚を先頭に 子供達がマラソン練習に励む姿が見られ、機関士に復帰した朝治が並走して子供達を応援しています。
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PS.
 秋田県の小坂鉱山で働く小柄な山田敬三氏が、オリンピックでの惨敗からボストンマラソンで優勝する迄の姿をコメディタッチの味付けを加えて映画化した作品です。作中で金田監督名の金栗四三氏が、実際 日本選手団長として同行しています。

 冒頭 小型蒸機に牽かれた列車が到着する小さな駅は、秋田県の小坂鉄道小坂線 小雪沢駅です。宇野重吉が運転する機関車は、1907年 ボールドウィン製2号機関車です。当時 小坂鉄道の小坂線は大館~小雪沢が蒸機・小雪沢~小坂が電機運行で、開業以来の762ミリ軌間の軽便鉄道でした。

 作中では花室鉱山の最寄り駅の様に登場する小雪沢駅ですが 駅の周囲に人家は無く駅舎も無い小駅で、大館から牽いてきた蒸機を電機に付け替える為の駅でした。残念ながら日立製凸型電機は映りませんが、その様な理由で構内には架線が張られているのです。
 その後輸送力増強の為 改軌・内燃機化される小坂線ですが その工事が完成する前に長年酷使した電機が疲弊したので、電機の運用を茂内~小坂に短縮し 機関車の付け替えを茂内駅に変更しました。この為小雪沢駅の存在価値が無くなったのか、改軌一年前の1961年10月に廃止されてしまいました。

ロケ当時 大館~小坂は下り7本上り8本で基本蒸機が作中の様に、貨車の後ろに客車1か2輌を連結した混合列車で運行していました。蒸機同様に客車も開業時の明治40年製客車が、1962年の改軌まで使われていました。
 既存軌道の両側に標準軌用の高規格レールを設置するなどして休止期間を短くして、1962年10月標準軌間への改軌が完成します。同時に客貨分離となりDD13形タイプや1957年から導入したDC3.4(ゲージを762㎜から1067へ改造)内燃機が貨物列車を牽引して、内燃気動車が旅客を運ぶ様になりました。

 その後 客貨共に増加しましたが 鉱山の衰退から輸送量が減り続け、1994年に旅客輸送が廃止され 残る貨物も濃硫酸輸送で生き延びましたが 2009年3月末をもって廃線となってしまいました。

 2020年4月2日  山田敬三氏は92歳で死去されました  ご冥福をお祈り申し上げます

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288.情炎

1967年5月 松竹 配給 公開  現代映画社 製作   監督 吉田喜重

愛の無い結婚生活に悩む 社長夫人 古畑織子(岡田茉莉子)が 亡き母の愛人に魅かれながらも、行きずりの男と関係して 更に苦悩する 女の情念と心の移ろいを描いた映画です。

母の死後 久しぶりに短歌の集いに出席した織子は 母の愛人だった能登光晴(木村功)に再会し、終了後 連れ立って話ながら踏切を渡って行き その後を 横須賀線らしき電車が通過します。
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その後 回想場面で織子は能登に「桃井繁子(南美江)の娘です お話があります」と告げると、能登の家で話そうと歩く道中で江ノ島電鉄(当時は江ノ島鎌倉観光)の線路内を歩いて行きます。後ろから 500形の501を先頭にした藤沢行2連が左右に車体を振りながら近付いて来ました。
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二人は左右に分かれて線路から離れ、電車が通り過ぎるのを待ちます。 
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そして織子は「もう母に会うのは止めて下さい」と能登に願い出ます。しかし能登は話をはぐらかし、会わないという約束はできないと断るのでした。織子は怒ったのか、来た線路内を足早に戻って行きました。
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母親をふしだらな女だと言う織子ですが、能登に魅かれながらも 行きずりの労務者(高橋悦史)と関係してしまう自分に 苦悩する織子でした。
そんな自分のことを能登に話そうと、前に能登と歩いた江ノ電の線路内を歩く場面があります。
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その後 線路沿いの道を歩くと、500形の502が後ろ側の2連とすれ違います。
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能登の家に行くと不在で、夏の間は真鶴の石切り場で活動しているとのこと。真鶴迄の東海道本線の道中でしょうか、混んだ車内で立つ織子の周りの男は皆タバコを吸って煙たい様子です。
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織子は古畑と別れる決意を家の襖に短歌で残して、最後の場面である北鎌倉駅へと向かいました。ホームを歩くと、反対側のホームに あの労務者を見付けます。
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やがて横須賀線の111系らしき電車が 反対ホームへ到着し
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出発して行くと、一瞬目を合わせたあの男はもうホームから消えていたのでした。







PS.
 古畑織子と能登光晴が最初に連れ立って渡る踏切は、北鎌倉駅に近い 第一円覚寺踏切の様です。当時は遮断機も警報器も無い、第4種踏切だった様ですね。

 回想場面で初めて織子と能登が会った時、能登の家へ行くのに長々と線路内を歩く場面は由比ヶ浜~長谷の区間でしょうか。思い切った織子の願い出には、閉鎖的空間でという 監督の表現の為 江ノ電の協力を仰いだのでしょう。
 江ノ電初代500形の 501は 501と551が組んだ 2連で、1956年に製造されて連接台車で繋がっていました。1979年に前照灯を窓下に2灯配置する様に改造され、見た目の印象が大きく変わりました。

 織子が能登の家に向かう時 江ノ電 502とすれ違う場面は、稲村ケ崎~七里ヶ浜の区間でしょうか。電車が通り過ぎた後 織子は線路を渡るので、能登の家はこの辺りにある様です。
 同じ500形でも 501の前照灯は前面の上部に丸形と一般的なのに、502は大型のケース内に角型の前照灯とその左右にタイフォンと特徴ある姿でかなり印象が違いますね。

 東海道本線の車内場面はセットでの撮影の様ですが、当時の東海道本線は東京~平塚が禁煙区間であり 織子が乗る平塚~真鶴は喫煙可能なのでした。


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