日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

139. 俺は待ってるぜ

1957年10月 日活 製作 公開   監督 蔵原惟繕

元プロボクサー 島木譲次(石原裕次郎)が、兄の死に絡む裏社会との対決を描く サスペンス・アクション映画です。

鉄道シーンは冒頭のタイトルバックから有ります。夜 暗い鉄路を甲高い汽笛の音と共に C56形蒸機牽引の貨物列車がレストラン・リーフの横を通過して行きます。
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店主の島木が店を閉め帰路につくと、雨の中 街を彷徨っていたクラブ歌手 早枝子(北原三枝)を助け店で休ませました。

翌日 店の前をいつもの様に C56 146蒸機が、黒煙を吹き上げながらバック運転で通過して行きます。背後にタグボートや大小の貨物船が映り、港のすぐそばらしいことが分かります。
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店で一夜を明かした早枝子が、西部劇に出てくる酒場風の出入り口から線路側に出てきました。振り返る早枝子の背後には、トラス橋梁と特徴ある横浜税関庁舎が見えます。
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C56 146蒸機は当時 横浜機関区所属で、この界隈の貨物列車牽引や入換作業を行っていました。以上からこの鉄路は、東海道本線横浜貨物支線(通称 横浜臨港線)でしょう。
そしてこのレストラン リーフが有る場所は、当時の横浜港駅から横浜税関構内へ向かう新港橋梁手前辺りと思われます。店は撮影用セットで、新港橋梁は現在も保存されています。

その後臨港線は 1965年 山下埠頭迄 延伸開業しました。1980年 6月には横浜開港 120周年記念祭に C58蒸機牽引列車を走らせ賑わいましたが、鉄道貨物衰退から 1986年廃線となりました。
1989年横浜博覧会が開催された折 レトロ調気動車が日本丸~山下公園で期間中復活運行されたのを最後に、現在では遊歩道に整備されて橋梁部分が残されています。

次に打ち解けた島木と早枝子が、横浜 馬車道界隈を歩く場面があります。そこに横浜市電2系統(生麦~本牧一丁目)の 1000形ボギー車 1015が赤玉ポートワインの広告付で登場します。
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この路線は 1970年 6月末迄ありました。二人は柴田利(波田野憲)が付けているとも知らずに、馬車道にあった三菱信託銀行前から伊勢佐木五丁目 平安堂薬局本店(現有)前を歩いて行きます。
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そして柴田は続く交差点で 自転車・オートバイ・乗用車・市電に因って遮られ、島木と早枝子の二人と離れてしまいます。
ビルの上から撮影されているこの市電も、1000形と思われます。
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PS.

主人公 島木譲次の名からピンときた方もいらっしゃるでしょう。 吉本の芸人 島木譲二氏は、自身も元プロボクサーでありこの映画から芸名を決めたそうです。

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138. 鉄火場の風

1960年1月 日活 製作 公開  カラー作品   監督 牛原陽一

無実の罪で網走刑務所に服役した畑中英次(石原裕次郎)が、復讐を兼ねて勧善懲悪の活躍をする任侠系アクション映画です。

石原裕次郎が歌う 主題歌「最果てから来た男」に乗ってのタイトルバックで、網走から東京へ戻る道中を細かく描いています。ここがこの映画の鉄道シーンの全てと今回は異色作を取り上げます。
先ず 最果ての雰囲気漂う 釧網本線らしき海が近い鉄路を、回転噴火止付の C58形蒸機牽引混合列車の姿が映ります。線路沿いにいた馬は、列車の音で遠ざかりました。
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続いて雪が少々有る原野を、D51形らしき蒸機が 6両の客車を牽いて通過して行きます。
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根室本線か海沿いに転車台のある小駅を通過して、急行列車らしき車内で煙草を吹かしながら寛ぐ畑中が映ります。
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次に美しく特徴ある姿の駒ヶ岳を背景に、湖畔を行く D51形蒸機重連牽引優等列車が映ります。函館本線 仁山~軍川(現 大沼)の小沼沿いの区間でありましょう。
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後部に二等車2両を連結していることから、函館発 11:35 3ㇾ急行アカシヤ号 旭川行と思われます。撮影の都合で下り列車でのロケとなったのでしょうか。

その次は北海道と別れる青函連絡船。1本陰になり3本煙突に見えますが、洞爺丸型 連絡線の様です。畑中は、あえて昼間航行の連絡線で内地へ渡った設定の様です。
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そして次のシーンがハイライトで 爽快な秋空の元 左手より C61形蒸機がヘッドマークも誇らしげに、青い 44系客車を従えて左にカーブしながら高速で通過して行く特別急行列車の姿があります。
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この列車は、当時東北で唯一の特別急行はつかり号です。青地に3羽の雁が描かれたヘッドマークは、当時 東京以北では唯一の存在でした。
最初の画像と同様 線路脇にハエタタキが並んでいますが、釧網本線と東北本線の路線規格の違いが形に(通信線の横棒が3本対7本)表れています。
このロケ地は不明ですが、C61単独で牽引しているので盛岡~仙台の何れかです。この間 183.2km で、停車駅は一関のみ と風格ある特急らしい運行でした。

続いては、架線下を C61形より一回り大きい C62形蒸機に替って牽かれる特別急行はつかり号が登場します。左手から平坦な直線を驀進して来た C62は鉄橋を渡って行きます。
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常磐線 取手~我孫子の利根川橋梁でしょうか。44系客車を青色塗装し、白帯2本加えて特別急行らしく統一されています。編成の中程には一際窓が大きいオシ17形食堂車が連結されています。
最後車スハフ43の後部には黄色地にヘッドマークと同様デザインのテールマークが取り付けてありますが、高速故かカメラのピントが不完全なのが残念です。
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最後は上野駅 13番ホームへゆっくり進入して行くシーンです。当時の上野駅は 11~17番線が地平ホームで、黒い蒸機やこげ茶色の電機・旧客ばかりで薄暗い雰囲気の世界ですね。
また常磐線列車の発着は高架ホームの 7・8番線でほぼ固定されていたので、高崎・上信越線用の 13番線への回送推進運転列車でロケして終着駅 上野へ漸く到着したことを強調したかったのでしょうか。
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畑中の行程を到着時からタイトルバックに沿って推測してみると 上野 17:00 ←(2ㇾ特別急行はつかり )ー 5:00青森 19:10 ←(連絡線18便 )ー 14:30 函館 13:51 ←(8ㇾ急行まりも )ー 23:35 帯広 15:51 ←(410ㇾ準急狩勝 )ー 13:10 釧路 13:03 ←(523ㇾ)ー 7:58 網走

となり沿線車窓を楽しみにしていたのであろう畑中は、 初日は急行まりもで車中泊 二日目は青森で一泊して三日目の夕刻 上野に到着と実に 57時間余りの大旅行でした。
単純に上京を急いだら、上野 17:00←(2ㇾ特急はつかり )ー5:00青森 4:20←(連絡線12便 )ー 23:40 函館 22:32←(512ㇾ旭川より 2ㇾ急行大雪 )ー 6:18 網走
となり連絡線内で一泊して二日目の夕刻到着と 34時間42分で着きますが、車窓からオホーツク海や駒ヶ岳 津軽海峡を見ることは出来ません。では妄想はこのへんで・・・


 

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137. 美しき抵抗

1960年12月 日活 製作 公開   監督 森永健次郎

大学医学部 助教授で研究室勤務だが、世渡り下手な父親 松波亮輔(北沢彪)と従順な母親 松波ゆき子(高野由美)に反発する三姉妹の家族ドラマを描く映画です。

小田急電鉄 喜多見駅近くに松波家が在る様で、小田急電車や喜多見駅が登場するシーンがいくつか有ります。
先ず 松波家から見える 小田急電鉄 1600形らしきの走行シーンが有ります。
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こげ茶色塗装で、未だ緑多き住宅街を爽快に走り抜けて行きます。

次に 三女の高校生 久美子(吉永小百合)と同級生 三川(浜田光昿→光夫)が、喜多見駅前の道で話している背後に下り電車が到着するシーンがあります。
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喜多見駅はこの映画ロケの翌年には開業以来の構内踏切が廃止され、跨線橋が設置されたので現在より二世代前の貴重な様子を映画の中に残しています。

父親が態度を改め、娘達も父親の生き方に納得して松波家は一件落着。元の平穏な生活に戻って、ラストはいつもの朝の松波家の様子が描かれています。
三姉妹が揃って楽しそうに 駅へ向かう様子を母 ゆき子が微笑みながら見送っています。駅への小道を行く三姉妹の前方には小田急電車が通過して行きます。
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そして駅間近の線路沿いの道を三姉妹が歩いていると、背後の築堤上を前面2枚窓の京王帝都電鉄 2000系(すぎたま様コメントより)が走り抜けていきます。他の電車より近代的な印象がありますね。
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次に次女 都紀子(沢阿由美)が「良雄さ~ん」と声を上げて前方を歩く良雄(沢本忠雄)の元に駆け寄りました。長女 智恵子(香月美奈子)と三女 久美子の背後に京王帝都電鉄井の頭線 1700系らしき(すぎたま様コメントより)の姿が。
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駅前まで来て智恵子がポストに手紙を投函していると、こげ茶色の上り電車の姿が見えたので二人は慌てて改札へ走って行きました。
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1927年の開業時から在る小田急標準型の趣ある三角屋根木造駅舎は、ロケの後も長らく存在し 1989年の高架複々線工事開始頃まで残っていた様です。

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 136. サラリーマン清水港

1962年1月 東宝 製作 公開  カラー作品   監督 松林宗恵

山本長五郎(森繁久彌)が社長の酒造会社 清水屋が、ライバル会社 黒駒酒造との販売対決を筋とした社長シリーズとは一味違うサラリーマン コメディ映画です。

中国人バイヤー邱六漢(フランキー堺)から清水屋の焼酎の大量注文があり、原料の干芋を入手すべく山本社長と秘書課長 石井松太郎(小林桂樹)が四国 松山へ向かう道中に鉄道シーンがあります。
有名な撮影地である浜名湖に架かる第三浜名湖鉄橋でしょうか、こだま型 151系特急電車がパーラーカーを先頭に颯爽と渡って行く姿が先ずあります。
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続いて一等車内。石井が朝日ジャーナルを読んでいる横を白上着に青い給仕の腕章を付けた列車給仕が通り、続いて車内販売員が通りますがこのシーンはセット撮影の様です。
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ここで山本は大阪で所用(芸者〆蝶[新珠三千代]と待ち合わせている)が有るので、石井に金毘羅山に代参し一人で松山へ先行する様 話します。

この後石井は四国への連絡船に乗るので、この列車は東京 8:00発 2001ㇾ特別急行 第一富士号 宇野行と思われます。大阪へは 14:30の到着 終着の宇野へは 17:20到着です。
この列車は昼行の四国連絡列車とは言え、金毘羅参拝や松山行を考えると不便で山本の企み優先に選定されたと思われますが宇野で一泊したと思われる石井にとっては楽な旅程となった様です。
そのお陰で石井は連絡船上で 訪問先の四国物産社長令嬢 都田京子(司葉子)と偶然知り合い、これが後に商談での逆転勝利にも役立つのでした。
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石井は金毘羅山代参の後 多度津 11:52発の 3ㇾ急行 道後で松山へ向かった模様で、この列車は14:20に到着します。そして松山城下を走る伊予鉄道松山市内線電車が石井と共に映っています。
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富山地鉄と同様 郊外鉄道線と市内電車線を共有する今では珍しい会社です。

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135. 愛と死の記録

1966年9月 日活 製作 公開   監督 蔵原惟繕

レコード店員 松井和江(吉永小百合)と印刷会社工員の三原幸雄(渡哲也)が恋仲となるも、三原の病気が二人を裂き悲しい結末へと向かう青春映画です。

序盤 三原と和江・三原の同僚 藤井(中尾彬)と ふみ子(浜川智子)が其々バイクに二人乗りでWデートに出掛ける場面で、呉線沿いの国道を走るシーンがあります。
呉線 坂~小屋浦(現在では間に水尻駅があります)の美しい海沿い区間を嬌声を上げながら走る二組のバイクを、C59161蒸機牽引の列車が高速で追い越して行きます。
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当時 糸崎区所属で客車7両+荷物車を平坦路線区間なので、軽々と高速で牽いて行きます。呉線の有名撮影地でもあるこの区間を走るC59の姿は貴重ですね。
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この C59 161機は戦後生まれで山陽本線一筋に全線電化迄走りました。呉線へ転じた後も状態が良いのかC59形最後の3両まで残り、呉線電化の時 蒸機さよなら列車として装飾した急行安芸を牽きました。
現在では広島原爆ドームからも近い、こども図書館に移設 静態保存されています。

中盤 和江が鉄道橋と並行する幅の狭い人道橋を雨に濡れながら歩いています。遠く背後で三原がバイクを降り、走り寄って来ました。左手の線路を黒煙を吹き上げる蒸機が近寄って来ます。
追い付いた三原が「バカじゃのう バカじゃ」と言うなり、和江を抱きしめます。猛然と黒煙を吹き上げ轟音と共に鉄橋を渡りながら近付く C58形らしき蒸機列車。
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一転 線路の向こう側から二人の姿をカメラが捉えると、C58に牽かれた列車が左から二人を覆い隠して行きました。ワンカットに懸ける蔵原監督の熱意を感じます。
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この特徴あるロケ地が気になりますが、登場したのがC58であることから呉線ではないでしょう。広島で C58といえば芸備線ですが、市内に該当する様な橋梁はありません。
二人がいる人道橋らしきにヒントがありました。先人の写真に見覚えが有り、宇品線(既に廃線)の猿猴川に架かる大須口橋梁の様です。短く特徴に乏しい宇品線では、宇品駅かこの橋で撮る方が多かった様です。

この映画公開の3ヶ月前に同じ日活から公開された{ 夜霧の慕情  監督 松尾昭典 }の作中でも同じ場所でロケが行われています。カラー作品で、同じく C58蒸機列車が橋を渡っています。
この人道橋は明治期 軍用線として設置した橋を架け替えした際、旧橋の橋脚を利用して住民用の人道橋を設置したので鉄道橋と平行して存在していたのです。{ 夜霧の慕情 }ではその古い橋脚の様子が映っているので特別にその画像を加えます。
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宇品線はこの映画公開後の年末 広島~上大河原と短くして大幅に本数を減らし、定期券所持者のみ乗車可という変則旅客営業となり時刻表から消えてしまいました。
その後 1972年3月末には旅客営業が完全に廃止され、更に 1986年9月末をもって貨物営業も終了となり完全に廃線となりました。



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