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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

 43.泥だらけの純情

 1963年2月 日活 配給 公開    カラー作品     監督 中平 康

 外交官の娘 樺山真美(吉永小百合)と街のダニ、チンピラ次郎(浜田光男)の悲恋青春映画です。

 
 地下鉄銀座線渋谷駅西側の車庫沿いの坂道を降りて行く次郎。坂下の渋谷駅方面から塚田組長の娘 和枝(和泉雅子)が上って来て挨拶するが次郎は無視します。車庫との境には胸位の高さの壁しかなく内側が良く見えます。
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 当時はまだ開業時の 1000形 1100形が活躍し、戦後生まれの 1200形 1300形と共に昼下がりの渋谷車庫に休む姿が映っています。現在この車庫は縮小し、その上に渋谷マークシティビルが乗っている感じで全く様子が変わっています。
 またこの場所はよく撮影地に使われ、日活でも 1958年製作の{ 踏みはずした春 監督 鈴木背順 }や 1965年製作の{ 青春前期 青い果実 監督 堀也清 }の中に銀座線車両と共に登場しています。

 ムシャクシャする次郎は横須賀線 70系電車の
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一等車に踏ん反り返っているところに和枝がやってきます。一等車とはいっても固定式クロスシートであり、枕部分に白布が付いている程度です。
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 街でカツアゲされていた女子高生の真美たちは次郎に助けられたことから真美と次郎のツキアイが始まります。初デートの最後 東急東横線 渋谷駅での別れ際に鉄道シーンがあります。
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 次郎が売店で50円のピーナッツを買い、半分を真美の手袋に分けます。発車ベルが鳴り、桜木町行 青ガエル5000系電車に真美が乗り 出発して行きました。5000系は 1954年10月登場した高性能電車でした。
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 この映画が撮影された当時渋谷駅は改造工事中で、木造の仮設ホームでの見送りシーンでした。その後東急渋谷駅は 1964年春 三年間に及ぶ大工事を終え現在の姿になりました

 次郎が日暮里駅 常磐線ホームへ跨線橋から降りていくと、チンドン屋のおばさん(武智豊子)がいます。後方には京浜東北線の 72系でしょうか到着する旧国電が映っています。
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 そして駆け落ち先で真美は「ねえ 雪だるまをこさえに行きません」と言い出し、次のシーンは信越本線田口駅に到着するD50315 牽引の列車が映ります。
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 田口駅は 1969年10月より現在の 妙高高原駅と改称された駅で、かつては特急、急行の停車駅であり上野行 急行妙高号の始発駅になった列車もありました。

 この映画撮影少し後 1963年6月信越本線は軽井沢~長野が電化されましたが、長野~直江津は 1966年10月なので当時はまだ蒸機天国。客貨共D51とD50が牽引していました。
大勢のスキーヤーと共に田口駅から出てきた二人は駅前から赤倉温泉行バスに乗り、悲しい結末に突き進んでゆくのでした・・・

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 42. 生きとし生けるもの

 
 1955年2月 日活 配給 公開    監督 西河克己

 伊佐早靖一郎(三國連太郎)と菅沼民子(南寿美子)を中心とした、会社内の人間関係を巡る企業系青春映画です。

 曾根鉱業社員の伊佐早は経理課の民子とつきあっていたが、社長の息子 曾根夏樹(山内明)が民子を気に入ったのを知り身を引こうとする。伊佐早の弟 令二(三島耕)はそれを聞き兄を罵り、曾根鉱業に入社した後労組活動に熱を入れる。
 夏樹が民子を秘書として伴い上野から仙台支社を経由して北海道の炭鉱へ向かおうとする場面に、この映画の鉄道シーンがあります。

 上野駅地平ホーム 12番線 最後尾に荷物車を連結した列車が先ず映ります。次に一等寝台車マイネ 41 に乗る民子が香取あき子(東谷暎子)から見送りを受けるシーンがあります。42-1.jpg
窓下には青森行のサボが掛っています。
 あき子は曾根の父である社長の曾根周作(山村聡)が息子 夏樹との結婚を望む仕事関係の有力会社々長令嬢であるが、夏樹は民子の方を望んでいます。

 あき子は民子にウイスキーのポケット壜を渡し、夏樹に渡してほしいと告げます。一等寝台車マイネ 41 の 1200㎜巾ある広い窓際に座る民子越に通路を挟んだ向こうの席に座る女性も見えます。
1950年に新製された最新型寝台車で進駐軍監修の元製造されただけに車両の前後に2か所男女別トイレが有り、更に両方共洋式トイレ!でプラス広い婦人洗面室まで付いています。定員は 24人で夜はゆったりと過ごせます。
 一等車とはいえ、プルマン式寝台車の昼状態のボックス座席では枕部分の白布もありません。収納式の仕切り板が下げられていて、車内の見通しは良く座席の枕部分が異様に厚く見えます。
 特別二等車である特ロは各映画会社にセットが組んであるかの様に多くの映画に登場しますが、三等制時代の一等寝台車がチラリとはいえ映っているこのシーンは貴重かなと思います。

続いて夏樹と南ゆき子(轟夕起子)がホームで話し42-4.jpg
デッキに乗ろうとする時、会社の部下達が北海道の炭鉱がストに入ったので仙台支社には寄らずに北海道に直行してほしいとの伝言を伝えに駆け付けます。
 その後八代恵美(北原三枝)も上野駅に駆け付けますが、一足遅く列車は煙を残しあき子とゆき子が見送る中 12番線ホームを去り行くところでした。
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 さてこの列車は何か? この映画が撮影された頃の昼行 青森行急行といえば、みちのく号です。でも 12番線からではなく、高架ホームの 7番線から 9:50の出発であったと思われます。
 ロケがあった頃の 1954年10月に時刻改正があり、その前から走っていた昼行急行みちのく号青森行にこの改正から 1号車に 二等寝台車が連結されることになりました。
 そして この1両のみ 23:44 青森到着後に切り離され客が乗ったまま青函連絡船に積み込まれ、更に函館からは急行大雪号網走行に組み込まれ 札幌まで連結されお昼に到着との予定でした。

 しかし 1954年9月26日起きた洞爺丸事故により客車の航送は中止。時刻表に載っているこの 1号車は連結されることなく欠車、全車青森行となったそうです。
 本編にある炭鉱ストが頻発した 1950年頃の話であるとすると、1950年10月~1951年5月急行みちのく号(名称が付いたのは11月から) 1号車に一等寝台車マイネ40が連結され 1号車のみ航送し札幌行でした。
 つまり現在の北斗星やカシオペアと同じく上野~札幌の列車が実在していました。上野発 9:35ー23:50青森0:40ー5:10函館5:50ー12:00札幌と所要26時間25分、民間航空路はまだ再開していない(航空路は 1951年11月から)ので最速でした。

 12番線から出る主な列車に仙台行 9:00発の急行青葉 13:00発の急行松島があり、撮影されたのは後の列車かもしれません。1954年10月改正前だと一等寝台車が連結されていた青森行は後に急行十和田となった 1201ㇾ特殊列車だけでした。
 この列車は進駐軍専用列車ヤンキーリミテッドとして東京~札幌に運行され1952年4月から枚数制限付で日本人も乗れるようになった急行で、連絡船から接続の急行(後に洞爺となった)まで列車番号は全て 1201ㇾで統一されていました。
 でもこの列車は東京駅 19:00発 上野駅 3番線を 19:20発と夜行列車であり、マイネフ 38を使っていました。つまり当時 昼行青森行で一等寝台車が連結されていた列車はありません。

 思うに本編では車両に東シナ マイネ416 と記されていることから、当時マイネ41 を連結していた東海道本線の急行 彗星、月光、筑紫の間合いか予備車を品川駅に運んでもらいサボを美術さんが製作し撮影されたのでは?とも考えられます。
 監督が何故一等寝台車に拘ったのか?当初は仙台支社に立ち寄ってから渡道する予定でしたから上野~仙台の乗車予定です。大会社幹部の出張なので一等車と思ったか?映像からも一等車とはいえ寝台車の昼状態は豪華な4人掛けボックスシートの様です。

 この頃の長距離急行列車にほぼ連結されていた特ロこと特別二等車のリクライニングシートの方が遥かに乗り心地が良い筈です。料金面から見ても仮に上野~仙台を急行一等車で行ったとすると、運賃 2920円+急行料金 1080円 合計 4000円です。
 急行特別二等車で行くと、運賃 1460円+急行料金 720円+特別二等車料金 420円 合計 2600円とかなり違います。上野~札幌で比較すると一等寝台車下段で合計 11080円 二等特ロで合計 5720円 飛行機が 10200円となり一等寝台車がいかに高いか!
 この為 1950年には利用率が高かった一等寝台車も飛行機が普及してきたことから次第に下がり、1954年夏の調査では後に急行十和田号となる特殊列車で 33%と低く 1955年7月より格下げされ全車二等寝台車となりました。

この後あき子は北海道へ行くことになり、D51牽引列車が映ります。42-3.jpg

 

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 41. 夜霧のブルース

 1963年6月 日活 配給 公開    カラー作品    監督 野村孝

 非情なヤクザ社会に身を置く西脇順三(石原裕次郎)を巡る任侠系青春映画です。

 鉄道場面としては、西脇が神戸一の貝塚組幹部として羽振りをきかせていた頃の回想シーンに4箇所程あります。
 港近くで西脇が子分二人を連れて踏切に差し掛かると、汽笛が鳴り 8620形牽引と思われる貨物列車がゆっくりと鐘を鳴らしながら通過して行きます。

 遮断棒は申し訳程度の長さしかなく道路の中央部分は大きく開いていますので、人通りの少ない臨港地区によくある引き込み線の様です。
 煙突の前に鐘が有り、低速で走っていることから 神戸臨港線の貨物列車ではないかと思われます。劇中では汽笛が鳴っていますが、日活映画特有の音なので実際には鳴らしてはいなくアフレコと思われます。

 これは沿線にホテル等が多く なるべく汽笛を使わず、劇中の様に低速で鐘を鳴らしながら運行していたそうです。神戸臨港線は山陽本線東灘操車場から分岐し、湊川迄の間に多くの枝線が有りました。
 この映画撮影の翌年2月末をもって 8620形等蒸気機関車はDL化されていますので、僅かなシーンではありますが貴重なシーンと言えましょう。その後途中迄電化されましたが、2003年11月末をもって廃線となりました。

 次に三宮駅前の片隅で西脇ら三人をやり過ごすチンピラ二人のバックには阪神三宮駅と国鉄三ノ宮駅の間を走る神戸市電が映っています。
阪神三宮地下駅の入るそごうデパートビルは 1981年春迄この重厚な外観でした。41-1.jpg

 本編では現在のフラワーロードにあたる道路に神戸市電が走っていて、撮影位置はT字型交差点の突き当り部分ですが現在の様に通り抜けできる十字型交差点に改造工事中の様子が映っています。

 続いては西脇の恋人となる榊田みち子(浅丘ルリ子)が神戸駅から帰郷する場面があります。大阪発 佐世保行の急行平戸号の通路側席に座ります。茶色塗装のナハ10らしき9号車です。41-4.jpg

 放送で 22:19 神戸発車 岡山 0:45 ・・・下関 7:55 ・・・終着 佐世保 12:32 到着と続きます。こんな時刻でもホームには駅弁の立売がいて、車内から買いに降りてくる人もいます。横には赤帽さんも二人います。41-3.jpg


 西脇がみち子との新しい生活の為 組を抜け駆け落ちを計った時、初代後期型セドリックのタクシーで神戸駅へ向かうシーンがあります。踏切警手のいる第一種手動踏切を渡り、須磨の辺りか 72系らしきと並走するシーンがあります。
 そして高速も無くスッキリとした港方面からの道を上り、神戸駅ロータリーに乗り付け改札へ急ぐ二人でありました。



PS. 米手作市様のコメントにより、神戸から乗った客車をナハ10に訂正致しました。お陰様で 9番線に停車の点からも、国鉄の協力によって別な駅で深夜に車輛を借りてロケを行ったのでは?との思いに至りました。
 

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 40. 地底の歌

 1956年12月   日活 配給 公開     監督 野口博志

 伝統はあるが、今では傾いてしまった東京江東地区を縄張りとする伊豆一家を巡る任侠映画です。

 冒頭 京葉道路両国橋から千葉方面を俯瞰する映像に総武本線隅田川橋梁を渡る電車の姿が小さくあります。両国橋の上には都電がいます。系統番号は分らないので 12.25.29 番の何れかでしょう。
 続いて四ツ目通りを走るボンネット型バスの上を交差する総武本線 40系国電らしき中野方面行が、木造の錦糸町駅へ進入するカットがあります。
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 現在では四ツ目通りを跨いで亀戸側までホームがありますが、当時は両国側だけで納まっていたんですね。この地区一番の歓楽街である江東楽天地も道こそ広いが、砂利道だったとは・・・。

 組員の びっくり鉄(高品格)が 山田花子(香月美奈子)を成田へ連れて行くシーンでは、先ずクロスシートに二人で座っていることから 1500形車内での撮影と思われます。40-2.jpg

 続いての走行シーンは 700形3連でハッキリとは映っていないが、成田行の急行護摩号ではないかと思います。40-3.jpg
この頃特急開運号は専用の 1600形が走っていて、京成上野発 9:30 途中青砥のみ停車で 10:41 京成成田着でした。
 特急開運号は座席指定料金50円を徴収する、一日上下1本のみの有料特急でした。急行護摩は京成上野発 8:20~11:03 に8本設定され全て京成成田行で、帰りは 13:55~16:40 に同じく8本あり成田山新勝寺参拝の一般客輸送を担っていました。

 木造の京成成田駅改札前で、花子が獲物を待つシーンが続きます。ホームに200形らしき電車が到着し、木製ラッチを続々と客が通り駅前広場を成田山方面へ歩く姿があります。
 駅舎こそ新しくなりましたが、現在とあまり様子は変わっていません。広い駅前広場には数多くのタクシーやアメ車が停まり、お土産屋なども多く賑わっていて華やかさは今以上かもしれません。40-4.jpg


 

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