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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

 39、 風車のある街

 1966年6月  日活 配給 公開  カラー作品    監督 森永健次郎

 大学で保育学を学び保育園で働く 三浦まり子(吉永小百合)と二人の男性を巡る青春映画です。

 この映画の鉄道シーンは冒頭部分に集約されています。先ず車内から撮る 海辺を走るブルートレインのシーンから始まります。
 撮影地は何処でしょうか。その直後のまり子とおばあちゃん(北条民江)の会話から山陽本線 宇部~下関の様です。

 二人は特急さくら号長崎行に乗っていて、次の下関着 8:28 ですから寝台の解体も終わり向かいの席の二人も着替えを済ませています。
 「食事は駅弁に限る」と言う祖母の希望で下関に着くや まり子は駅弁を買いに降ります。まり子が車内へ戻ろうとすると祖母は「駅弁は要らないから酒が欲しい」と勝手な事を言います。

 発車後 まり子は食堂車へお酒を買いに行ったのか、おばあちゃん一人でいる所へ石倉力三(浜田光夫)が乗ってきます。39-1.jpg
向かいの席の二人は下関で降りたのでしょう。
 石倉は下関からヒルネ自由席特急券で乗ってきた様です。車内では口が悪く図々しいので、まり子は嫌がりますが下車後二人は急接近する展開となります。

 その後は走行シーンが無いまま、さくらのヘッドマークを付けた DD51 を先頭に長崎駅に到着するシーンへと続きます。39-2.jpg
当時のダイヤでは 13:06 の到着ですから昼食も食べたいくらいですね。
改札口で母親と弟に再会するまり子背後には DD51 が外れ カニ22ではなく20系ブルートレインと同色に塗られた簡易電源車マヤ20を先頭にした さくら号が映っています。39-3.jpg


 つまりこの編成は 1965年10月から佐世保行が併結されたことにより一年間だけ走った、個室付一等寝台車ナロネ22,一等車ナロ20,食堂車ナシ20が付いていない付属編成なのです。
 一等寝台車ナロネ21こそ付いていますが、本筋である長崎行から本編成を取り上げるとは・・・。さすがに一年後からは元の本編成に改められましたが、不思議な過去であり貴重なカットでもあります。

 特急さくら号は惜しくもこの映画が撮影された前年10月に C60形蒸機から DD51形DLに牽引機が替っています。
 1960年公開の東映々画(大いなる驀進  監督 関川秀雄)のラストに特急さくら号を牽引する蒸気機関車の映像 C61形蒸気機関車ではありますが長崎駅へ到着するシーンを並走させた車両から撮影するという迫力あるシーンがあります。
 





 PS.

 冒頭の走行シーンですが、先頭はオレンジ色の機関車 撮影している車両を含めて映っているのは8両編成。そして架線が無く、非電化路線の様子。
 そうなるとこれは、DD51形DL牽引で長崎本線を走る姿なのでしょうか?。 初夏のこの時期広島 5:13 ~ 徳山 6:47 の山陽本線海沿いを走る区間でも撮影可能だと思いますが・・。

 石倉は下関から乗り込んできましたが、この頃のさくら号は佐世保編成のみ博多~佐世保で一.二等車の自由席特急券が発売されています。
 長崎行の方が終点まで乗る人が多かったのか、博多までに下車する客を佐世保編成に集中して発券した様です。公式には存在しなくとも管理局判断で下関からのヒルネ特急券を発売したのかもしれません。

しかし金は無いけど暇はある石倉は何故 特急さくら号に乗ったのでしょうか?普通なら急行に乗った時代でした。 下関から長崎へ行くのに 6:54発の急行玄海なら長崎着 12:08です。上記の特急さくらは 8:32発で長崎着 13:06。
 映画のスジから走っていたと思われる臨時急行第2玄海なら下関 8:48発で 14:11に長崎着です。更に 8:39発の普通列車に乗り門司で博多行普通に乗り継ぎ、博多から急行西九州に乗り替えても 14:29に長崎に着けます。
 石倉とまり子の出会いの為の場面ですが、時刻表を眺めれば少々不自然な感は否めません。でもこんなに細かく検証すればの話で、突っ込み過ぎかな。 この映画を見ているとこの間 普通の人にはごく自然な流れで描かれています。
 

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 38、 とべない沈黙

 1966年2月公開  日映新社 製作  ATG配給    監督 黒木和雄

  人や汽車などの手を借りて、各地を移動して行くナガサキアゲハの幼虫から見たオムニバス映画です。

 鉄道シーンは長崎での話にあります。 枝葉の付いたザボンを持った女性が長崎駅で発車間際の急行雲仙へと急ぎ、デッキでザボンを手渡した様に見えます。
 ホームには「急行雲仙 発車します 次の停車駅は諫早です」と放送が響きます。続いて C6025 が豪快にドレーンを切りながら牽引し、長崎駅を発車して行くシーンがあります。38-1.jpg


 上り急行雲仙はこの映画公開時 長崎~鳥栖は DD51 牽引でしたが、この映画は難解な内容からか完成から一年以上経て配給も東宝からATGとなって公開されたそうです。
 ですから撮影は 1964年夏らしく、まだ長崎本線も蒸機牽引の列車が多く残っていました。

急行雲仙は戦後無名急行時代から長崎、佐世保と東京を結び、撮影時は肥前山口から佐世保発の西海号と併結列車となる為僅か5両編成でした。
 その後 1968年10月からは長崎、佐世保と大阪や京都を結ぶ急行列車となりましたが、寝台特急あかつき号の人気に押され 1980年9月末をもって廃止となりました。

 その次に横からの機関車力行シーンがありますが、なぜか C58 の様です。
 車内では大柄な男がザボンの皮を剥き始め、ナガサキアゲハの幼虫の姿を見るや開いている窓から大袈裟な悲鳴と共に放り投げました。

 そしてその幼虫がレールの上を這っていると、C58289 牽引の列車が通過して行きました。しかしその直前、幼虫はレール側面に移動していたのでした。
 2本のレール中央にカメラを設置し、遠くから近付く列車が最後は頭上を通過して行く伝統の撮影方で迫力あるシーンであります。
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 PS,
 
 急行雲仙の発車シーンで C6025 が牽いているのが 20系ブルトレの様です。7両編成の大型客車の次の最後尾はカニ22電源荷物車の様です。
 つまりこの列車は 15:02 発の東京行急行雲仙ではなく、15:20 発の特急さくら号か?車両、編成数はピッタリ。でもヘッドマークがありません。

 思うに下り特急さくら号長崎到着後の回送引き揚げ列車を撮った映像ではないかな・・・でもこの映画には急行雲仙でないと合いません。
 特急さくら号は撮影翌年の 1965年9月末まで C60 蒸気機関車牽引で長崎本線を走り、DL・EL牽引となり 2005年春まで長崎と東京を結んでいました。

 C58 機関車が登場する場面がありますが、C58は九州では大分区所属で豊肥本線での活躍が主で長崎本線ではこの頃 使用されてなかったのでは?
 特に C58289 機関車はこの頃 佐倉区所属で総武本線、成田線を走っていたのでは・・・

 監督さん 編集段階になってから幼虫の生命力の強さを強調する場面を加えたくなって、急遽手近の路線で追加撮影したのでは?と勘ぐってしまいます。
しかして 構内の端から望遠で追い続けた C6025 の発車シーン。C58289 が迫り来るシーンなどは素晴らしい映像で、監督は並々ならぬ蒸機好きかと推察します。
 

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 37. 英雄候補生

 1960年10月 日活 配給 公開  カラー作品    監督 牛原陽一

 松舞組の一人息子 松舞竜太(和田浩治)を巡る 任侠アクション映画です。


 タイトルバックから続いて 151 系 特急こだま号が2カット映り、当時の有楽町付近を東京駅へ向かって走るシーンも有ります。 
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 竜太の父親である松舞組々長が殺され、イダテンの源こと吉田源(藤村有弘)は竜太に跡目を継ぐよう説得します。
 この年6月から1等車に格上げされた旧特ロ車内でのシーンがありますが、これはセット撮影の様です。後ろの席の窓際にダッコちゃん人形が掛っているのがこの年を象徴していますね。

 次に 竜太の友達であるキッド守田こと守田浩(守屋浩)を高知駅で出迎えるシーンがあります。2代前の木造駅舎が映った
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その後 DF5017 牽引の準急土佐1号がタブレット交換をしながら到着。
 5号車から降り立った守田は、竜太や源と独特の挨拶をホームで交します。
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売店の上部には 1954年から販売の銘菓 土佐日記の看板が有ります。
 挨拶が終わるころ隣の上りホームから C58 に牽かれた土佐山田行らしき 各停列車が出て行く姿も映っています。

 市内見物の途中 はりまや橋交差点で車を停めた時バックに土佐電鉄桟橋線 300形単車が映り、この頃配備が始まった赤い角型ポストの隣には古い丸型ポストを流用したと思われる青い丸型ポスト(速達用)があるなど時代を感じられますね。
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 準急土佐は 1959年9月より高松~窪川(高知~窪川は各停)で走り始め、本編の様に高松~高知は DF50 高知~窪川は C58 が牽引する客車準急でした。
 1960年6月~9月 定期で DC準急 土佐2号が増発され、1960年10月からは2本共DC準急土佐となり 1966年10月から急行へ格上げされたのでした。
 奇しくも本編の撮影は、土讃線近代化の過渡期 客車準急土佐1号, DC準急土佐2号が混在した僅かな期間に行われたのです。

 

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 36. 乱れる

 1964年1月  東宝 配給 公開   監督 成瀬巳喜男

 戦争未亡人となるも嫁ぎ先の酒屋をきりもりしてきた森田礼子(高峰秀子)の悲恋ドラマ


 結婚半年で未亡人となった礼子は義弟である森田幸司(加山雄三)が一人前になるまではと頑張ってきたが、店をスーパーに替える話が持ち上がったのを潮に森田家を離れ故郷へ帰ることにする。

 姑 森田しず(三益愛子)一人に見送られ、礼子は清水駅を 14:37 に出る準急はまな2号に乗る。この当時 153 系電車を使用しているが、入線映像だけが 80 系です。ホームには駅弁の立売が二人もいます。
 発車後 幸司が現れ、ミカンと週刊誌を差入れ送って行くと告げる。36-0.jpg
当初は困惑気味の礼子だが、次第に打ち解けていく様子。153 系準急はまな2号は 17:21 東京に到着した模様。

 次の場面は上野駅 中央改札口。列車案内札は残り5枚。放送で 23:20 発の急行 出羽 酒田行を案内しています。
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先に席とりをしている礼子が横を見ると新婚旅行の見送り人を撮影している様子です。36-3.jpg

 遅れて幸司がジュースとサンドウィッチを持って着席。そして礼子にハンドバックをプレゼントします。無駄遣いだと窘めながらも嬉しそうな礼子であります。

 次のカットはとある駅に停車中の出羽号。遠く蒸機の汽笛が響く中 ホームでは幸司が立ち食いそばを啜っています。
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発車ベルが鳴る中 食べ終わり、代金を払って席に戻り「熱いコーヒーでも飲みたいね」と幸司。
 夜行DC急行出羽は意外と長時間停車が無く、黒磯と郡山が7分。福島でさえ5分です。蒸機がいた点を考えれば、郡山ではと推察します。出羽の郡山到着が 3:18 出発が 3:25 で真夜中です。
 郡山は東北本線の要衝で上下列車が一晩中停車し、駅そば福豆屋は当時24時間営業だったそうです。その福豆屋は 2010年3月末で閉店となってしまいました。

 列車が夜明けを迎えようとするころ、礼子はいろいろな思いが沸き立ち突然「降りましょう次の駅で」と幸司に告げ朝もやの大石田駅で降ります。定刻なら 6:58 です。36-5.jpg

 堂々たる木造の大石田駅舎をバックに歩く内「私だって女よ 幸司さんに好きだと言われてとっても嬉しかった」 そして悲しい結末の待つ銀山温泉へと向かいます。36-6.jpg


 急行出羽は 1960年客車準急新庄行で誕生し 1961年10月から急行となり1等車,2等寝台車も付けられました。1963年10月から酒田行となりDC化されたので撮影はこの直後であったと思われます。
 上野発車時は 10 両編成ですが、山形で 5 両編成となり本編に登場するのはこの姿です。その後 1982年11月まで夜行DC急行として走りました。
 

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 35.父と娘の歌

 1965年10月  日活 配給 公開    監督 斎藤武市

 元 国際的クラリネット奏者である父 卓道一(宇野重吉)とピアニストを目指す娘 紘子(吉永小百合)の絆を描く、青春ドラマです。

 苦学しながらもピアニストをめざした紘子は、毎朝新聞主催のコンクールで優勝することができました。そしてそれをきっかけに東洋フィルでピアノをひくことになります。
 更に東洋フィルで楽団員の一般募集することを聞いた紘子は、キャバレーで歌手のバックバンドの一員としてクラリネットを吹く父に受けさせようとします。

 父のいる楽団の予定を聞くと、今夜 仙台発 21:30 の青森行に乗って移動するという。急いで特急に乗った紘子は仙台を目指します。
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 車内放送は 仙台着 21:28 一関着 23:10 と続きます。つまり定時で走っても仙台での接続は2分しか余裕が無いんです。

 無事仙台に着いた紘子は階段を降り、青森行が出る1番線へ上がります。
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発車時刻が迫る中 長い列車の窓際を小走りに父の姿を捜す紘子。
 この様子をカメラは車内の天井近くからホームの紘子をを見下ろすアングルで追います。今の様に小型で手ブレ防止機能のカメラの無い当時、どうやって撮ったのでしょう。
 臨場感の有るこのシーンを撮る為に掛けた、監督の熱意と拘りが感じられます。

 駅弁を買っていた旧知の吉行(山内賢)に会い、
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もう一両前に乗っていることを聞いた紘子は更に急ぎ漸く父に会えます。そして東洋フィルのオーディションを受けるよう頼みます。
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 「東洋フィルの第一回演奏会で私がコンチェルトをひくの。お願い!お父さん 私を助けて。お父さんと一緒にひきたいのよ!」
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 C61と思われる蒸機牽引で動き出した列車の窓越しに並走しながら必死の説得を続ける紘子。
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迫真の演技は見る者の心を打ちますが、父は何も答えぬまま列車は去り行きました。
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 演奏会の第一回練習日 クラリネットを持つ父の姿に感激する紘子。そしてラストシーンの父と娘で臨んだコンサートへと映画は続くのでした。



 PS. 当時の時刻表によると紘子が乗ったのは上野 16:30 発の 7D 特急ひばりと思われ、終点仙台には 21:25 着です。車内放送では一関 23:10 ですが該当する列車はありません。
     上野 12:30 発の秋田、盛岡行の特急つばさ は一関 18:42 次の特急はつかり は一関に停車しません。また映像では特急とき が何故か映っています。

     父の乗る青森行鈍行列車は仙台 21:30 発ですが、これに該当するのは上野 11:08 発の 11レ で仙台着 20:08 20:25 発となり終着青森には翌朝 8:13と宿替りにはピッタリです。
     哀愁を感じる仙台駅ホームでの別れのシーン。蒸機と旧客が一翼担っています。この一年後の1966年9月末、仙台~盛岡電化となり蒸機牽引列車は消えてゆきました。

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