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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

 30. 北国の旅情

 1967年1月 日活 配給 公開  カラー作品    監督 西河克己

大学生 上村英吉(舟木一夫) 金井由子(十朱幸代)と河原健二(山内賢)の三角関係がらみの青春映画です。

 冒頭 故郷ダイマツ町へ帰省途上の上村が C56 牽引の混合列車に乗っているシーンが出てきます。
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続いて、由子の妹 妙子(小橋玲子)が北山野駅(架空駅 )から列車に乗り込み上村を捜すシーンの後列車は架線の下を走りダイマツ駅に到着します。
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 ラスト 由子に別れを告げた上村はダイマツ駅で妙子たちから見送りを受け、東京へ戻らんとしますが由子は現れません。そして列車は30秒遅れで発車します。
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 発車後もデッキから外を見ていた上村。その目に並走する道路を河原が運転する車内から手を振る由子の姿が映り、上村も笑顔で返すのでした。
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 牽引機関車は全編で独特の角型集煙装置を取り付けた C56151 です。そして到着した駅のホームには駅そば屋が営業。
 これらから撮影は大糸線北部 ダイマツ駅は信濃大町駅であると思われます。C56151 は当時信濃大町分所々属で信濃大町~糸魚川の貨物列車を牽いていました。
 本編では青木湖辺りをバックに走るカットや、雪景色の雄大な北アルプスを背にして快走する姿が映っています。

 大糸線はこの頃 松本~信濃森上が電化 信濃森上~糸魚川が非電化でしたが、貨物列車は C56 が信濃大町まで電化区間も乗り入れていました。
 作中登場の混合列車は1961年廃止となっていますので、国鉄協力の元 撮影用に臨時列車を走らせたか運用替えと思われます。
 大糸線はその後1967年12月南小谷まで電化され現在の姿になるも架線の下を C56 貨物列車は走り続けましたが、1972年3月をもって新鋭 DD16 機関車に替り無煙化されました。

 

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 29. 夜の河

 1956年9月 大映 配給 公開  カラー作品    監督 吉村公三郎

 京都 堀川で京染の店を切り盛りする舟木きわ(山本富士子)と阪大教授 竹村幸雄(上原謙)の悲恋映画です。

 冒頭 堀川端を走る京都市電のN電 堀川線(北野線)が登場します。ポール集電に2軸4輪単車 明治生まれの姿で堀川端を颯爽と走る様子がカラーで鮮明に映っています。29-11.jpg


 唐招提寺を訪れた きわが自分の製作したネクタイをした竹村と出会い、帰り道 奈良電鉄の車内でしょうか皆で虹を見かけるシーンがあります。
 外観のシーンが無いので分かりませんが、最寄駅である近鉄橿原線西の京駅から乗り相互乗り入れしていた奈良電鉄線で帰京したとすると近鉄車両かも知れません。
 その後1963年10月奈良電鉄は近鉄に買収され現在の近鉄京都線となっています。

 中盤 きわに対して下心のある近江屋(小沢栄・・後の小沢栄太郎)と共に仕事で上京することになった きわは、近江屋が急行彗星に乗るとみるや1汽車遅らせ後続の急行に乗ります。
 近江屋は2等車の窓越しに妻の見送りを受けつつ きわのことが気になり目を泳がせます。29-22.jpg
きわは乗車後食堂車へ行くと偶然竹村に合い、ビールと紅茶でひと時を過ごします。29-33.jpg


 近江屋が構内放送の通り急行彗星に乗ったとすると京都発22:20 この後は22:32 の急行安芸と22:55 の急行月光しかありません。しかも共に食堂車は連結されてません。
 この頃夕刻以後東海道本線上りで 食堂車が付いていたのは鹿児島発東京行の急行筑紫だけで21:34発です。なので近江屋が乗った列車は1本前の21:14 発急行明星と思われます。
 その前にイノダコーヒーできわと近江屋が話すシーンを本店そっくりにセットを作って撮影した腕からして、食堂車のシーンは勿論2等車見送りのシーンもセット撮影かとも思います。
 
 きわの妹 美代(小野道子)が実家に寄った時 又も堀川線 ポール市電が映り、バックは二条城の一部からして二条城前電停で下車したと思われます。
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 このシーンではオープンデッキから運転手の姿もハッキリ見えます。明治期の姿を最後まで残した堀川線は1961年7月末をもって惜しまれつつ廃線となりました。
 

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 28.波の塔 

 1960年10月  松竹 製作、公開  カラー作品    監督 中村登

 青年検事 小野木喬夫(津川雅彦)と政商の妻 結城頼子(有馬稲子)の不倫悲恋映画です。

 鉄道シーンは冒頭と終盤にあり、漸く近代化が始まったころの中央本線が舞台です。
 冒頭に某省 局長の娘 田沢輪香子(桑野みゆき)が D51383 牽引の列車で上諏訪に降り立つ場面があります。28-0.jpg

 それなりに近代化が進んだこの当時、難儀な蒸機牽引列車で東京から来るとは遠い地方を強調する演出かな?

 明るい時間帯に上諏訪到着の優等列車は4本あり、その内新しいDCは2本。更に客車準急穂高1号は甲府~松本DE50×2牽引なので除外。
 局長のお嬢様がドン行で来る訳ないので、新宿 10:00 発の臨時準急 穂高2号と思います。この列車は7月21日~8月27日と9月23,24日運転の臨時便で、撮影時期と合っています。
 準急列車なのでオロ35 1等車が連結されていますが臨時列車故に、新宿~甲府は EF13 牽引で他の客車準急と変わりませんが甲府~松本が D51 蒸機牽引なのです。
 新宿発が 10:00 と手頃なので乗ったのかも知れませんが、上諏訪到着は 14:46 と温泉旅館へ入るには丁度いい時刻です。

 終盤 小野木と頼子は共に不倫が発覚したことから居場所が無くなり、東京駅で待ち合わせて駆け落ちかと思わせます。
 しかし頼子は小野木との約束を破り、新宿発 22:45 の準急穂高3号28-2.jpg
 2号車オロ35 1等座席に座ります。自らへのケジメとして一人で富士の樹海へ入る決意をしたのでした。28-3.jpg

 それでも発車のベルが鳴り始めると東京駅で待つ小野木のことが気になるのか席を立ちデッキへ行きますが、28-5.jpg
発車間際で乗り込んできた登山客に阻まれ降りられません。

 準急穂高3号は1号車にナロハネ10 寝台車 2号車にオロ35 1等車を連結した夜行客車準急で、前名の準急アルプス時代の1956年5月からナハネ10寝台車が付いています。
 1960年4月アルプスから穂高3号となり、その後臨時列車化され1965年10月よりEC急行となり客車準急 穂高は消えました。
 しかしこれは1965年10月から上高地と名前が変わっただけで列車の内容は変わっていません。なお寝台車はオロハネ10 1等車はオロ61でした。
 1966年3月からは急行上高地となりましたが、1968年9月末をもって長く続いた中央東線の夜行客車優等列車の歴史に幕を降ろしました。

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 27. あらかじめ失われた恋人たちよ

1971年11月 日本ATG配給.公開  制作 日本ATG & ポール・ヴォールト・プロ   監督 田原総一郎 . 清水邦夫

元アスリートの哮(石橋蓮司)と唖の男(加納典明)と女(桃井かおり)の不思議な結び付きを描いた青春映画です。

 気ままな旅をしている哮は何故か、北陸鉄道 能登線の終点である三明駅に降り立ちます。乗って来たらしいキハ5211 DCはさっさと折り返し、遠去って行きました。
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 鄙びたホームの先には小さな木造駅舎。しかして 何故かその改札手前では刃物を盛んに研いでいる駅員。 そしてジロリと哮に視線を送ります。

 ラスト近く キハ 5201 バケットカーの荷台部分に哮たち3人が乗り、風をきってこちらに向かって来る場面があります。
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 盛んに警笛を鳴らしながら走っているのは要請したからなんですが、3人の勢いにノッてしまった様にも見えます。
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 キハ 5201 は羽咋側にだけバケットが付いているので、このDCは羽咋方面へむかっています。

 キハ 5211 は1934年川崎車両製 鉄道省キハ41000形のキハ41056として生まれ、キハ41307と改番。国鉄キハ04形キハ048となり小海線で活躍後 遠州鉄道を経て、1967年北陸鉄道にやって来ました。
 1972年の廃線後は更に関東鉄道筑波線へ移ってキハ461として活躍し、筑波鉄道となった後の1985年廃車となりました。
 その後民間団体の手により保存されていましたが、現存する唯一のキハ41000形として鉄道博物館で元のキハ 41307 として再生し保存展示されています。

 キハ 5201 は1933年日本車両製 鉄道省キハ41000形のキハ41043として活躍。1950年能登線に移籍し、この時 羽咋側にのみバケットを取り付けました。
 北陸鉄道能登線 最後の日まで走り、1972年の廃線と共に廃車となりました。

北陸鉄道能登線は 1927年6月 能登鉄道として羽咋~三明の全線 25.5㎞が開業。1943年10月戦時陸上交通事業調整法により北陸鉄道に吸収合併 北陸鉄道能登線となりました。
 元々羽咋から人口の多い富来を目指して計画されたが、資金不足から中途半端な三明までしか建設出来なかったこととマイカー・バスに押され1972年6月全線廃止となりました。

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