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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

266.路傍の石

1964年6月 東映 製作 公開   監督 家城巳代治

日露戦争直前の封建的社会で愛川吾一(池田秀一)は貧困家庭故に中学進学を諦め 呉服商へ奉公に出ますが、酷い扱いの連続に堪忍袋の緒が切れ 東京での出世を夢見て故郷を旅立つ迄を描いた映画です。

辛い奉公人生活の間も高等小学校の恩師 次野先生(中村賀津雄)の励ましや、同級生 林京造(住田知仁)・作次(吉田守)との友情で毎日を耐え忍んでいました。
しかし作次の葬式に出ることを禁じられたことから店を飛び出し、吾一の一番の味方である母親 おれん(淡島千景)とも衝突してしまいます。

家も飛び出し あてもなく歩いた折、鉄橋を渡って走る汽車の姿に遭遇します。汽笛を鳴り響かせながら小型蒸機の後ろに、2両の客車と緩急車らしきを牽引しています。
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客車のサボには、憧れている〔行京東〕と表示されているのです。
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列車が通り過ぎた線路に上った吾一は、遠く去り行く汽車の姿をいつまでも見ているのでした。
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帰宅した吾一に母親は、東京へ出ることを許してくれます。そして いよいよ上京の日 汽笛を鳴らす蒸機が映り
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駅のホームには母と京造が見送りに来てくれています。
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乗車している吾一は窓から身を乗り出し、先ず京造 そして母と力強く握手を交わします。
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動き出した列車に乗る 吾一に二人は手を振り、吾一も応えて手を振り返します。
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更に京造は笑顔で手ぬぐいを、大きく振るのでした。
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列車は大きな川を渡って東京へ向かいます。車内で吾一は東京での希望と困難に立ち向かう決意に満ちた顔で座り、
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その思いを表す様に 一直線に伸びる線路を突き進むシーンで この映画はエンドマークとなります。







PS.
  日露戦争直前の時代設定なので服装や髪形などは合わせられますが、4度目に映画化された 1964年では見合う現役蒸機捜しに苦労したと思われます。
 
  この映画に登場する蒸機は、常総筑波鉄道(現 関東鉄道)常総線でDLの予備機として普段は火が入っていなかった8号機関車です。1924年汽車会社製で、翌年当ブログ(9.大冒険)でも登場しています。

  当時の常総線には 1942年制の 51号機も存在していましたが C12形蒸機と外観が同じなのと状態が悪いので、この映画公開の2か月後に廃車されています。

  牽引している客車は、1915年製のホハブ702と1912年製ホハブ703 それに緩急車ワフ106と思われます。木造客車で窓も小さいので、いい雰囲気が出ています。翌年の関東鉄道発足時には、廃車され引き継がれていませんでした。

  上京する吾一を見送る場面は、古く波打つ屋根の駅舎から水海道駅で行われた様です。駅名板は(かしわばら)と変えられています。


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 9、 大冒険

  1965年10月 東宝 渡辺プロ 製作  東宝配給  カラー作品    監督 古澤憲吾

 クレージーキャッツ結成10周年を記念して制作された、コメディ調 アクション映画。

 雑誌記者の植松唯人(植木等)は友人 谷井哲介(谷啓)の妹 悦子(団玲子)が好きだが、ひょんなことからニセ札組織に付け狙われ 悦子が拉致されてしまう。
 悦子の奪還を目論む植松。その植松を追うニセ札組織と警察。追跡劇は東京から名古屋、関西へと続いた。

 鉄道シーンは 先ず組織に追われた植松が車の屋根に乗り、渋谷宮益坂上交差点を通るとき都電10番の車両が映る。

 また東海道本線の鉄橋上では危うく80系湘南電車に轢かれそうになり、枕木にぶら下がり難を逃れる。9-1.jpg


 そして組織の殺し屋から馬で逃げる途上、踏切で混合列車を見てこれを追いかけ乗り移ります。舞台は愛知県の設定ですが、先頭で牽引するのは、関東鉄道8号蒸気機関車である。このSLは1924年汽車会社製で撮影時は既にDLの予備機として、たまに火が入り水海道区の構内入換をする程度で 撮影のため久々の本線走行であったと思われます。
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 次位にエキストラを乗せた2両の古典客車が連なり、無蓋車 緩急車と続いています。 この緩急車の側面には屋根まで続く梯子が撮影用に取り付けられています。 これを使って馬から乗り移り、屋根に上がる訳です。
 植松は緩急車の上から悠然と手を振り警察官達の前を通過して行きます。9-3.jpg


 関東鉄道のSLは関東のローカル私鉄としては最後まで活躍したことで有名です。常総線ではこの8号機が撮影翌年の1966年4月に火が入った記録があり、竜ヶ崎線ではDLの予備機ではありますが1970年まで動いていました。

 

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