日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

245.博徒一代 血祭り不動

1969年2月 大映 製作 公開  カラー作品   監督 安田公義

義理と人情に厚く 任侠道一筋に生きる渡世人 桜田丈吉(市川雷蔵)が、弟分の不始末の肩代りの為 恩人を狙う羽目になる任侠映画です。

時代設定は昭和初期の模様  組の金を持ち逃げした丸谷義介(伊達岳志)を誤って斬った桜田は、家族の窮状を見て丸谷の義妹 お園(亀井光代)に金を全額渡してしまいます。 
その金を賭場で作ろうとしますが、小洗音次郎(近衛十四郎)との大勝負に負けて死を覚悟します。ところが小洗は五百円もの大金を桜田に渡し、命を大事にしろと名乗りもせず 男気を見せるのでした。

自首した桜田は6年後に出所し、弟分 輪島勇一(金田吉男)のいる新津へ向かいます。蒸機の動輪部分の映像の後 深い峡谷に架かる鉄橋を蒸機牽引列車が渡って行きます。山陰本線 保津川橋梁でしょうか?、絵になる風景です。
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オハ 61系の様な背ずりが板張りの席で 向かいの席の男に煙草の火を貸すと、「兄さん どこまで行かれますんで?」と聞かれ「新津です」と答えると「あゝあそこには長丸一家の泉谷剛造ちゅう北陸きっての大親分がいなさる」と話します。
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新津で6年ぶりに輪島に会うと、大戸一家の代貸として出世しています。大親分 泉谷が跡目を大戸のライバルの善玉 北松市蔵(金田龍之介)と指名したことから、大戸国五郎(遠藤辰雄)は皆の前で北松を罵倒します。
それで北松の子分 島崎稲三(木村元)は割った盃を懐に大戸一家を襲いますが 返り討ちに会い、輪島の拷問で苦しむ姿に桜田は島崎の男気を感じて止めを刺してあげます。

桜田は新津の町を離れ 恩人探しの旅に出ようと、新津駅ホームで汽車を待っています。その背後には青空をバックにキャブの前に重油タンクを搭載したⅮ51形らしき蒸機が次位に緩急車を繋いで停車しています。
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その時突然 腰だめに匕首を構えた男が、桜田を刺そうと突進してきました。
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サラリとかわして睨み合ったところへ、C58 57蒸機が牽引する旅客列車が入線して来ました。
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予めホームでロケが行われると聞いていたのか、機関士・機関助手共にキャブから身を乗り出してホームを見ながら通過して行きます。男は島崎が桜田に殺されたと聞いて、敵討ちに現れた様です。
桜田が男に構わず乗車しようとすると、デッキから捜している恩人 小洗が現れビックリです。
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男が小洗に近寄り「代貸 帰ってきてくれたんですね」と言うと小洗は「何をしているんだ 早くそれを仕舞え」と言って連れて行ってしまいます。
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捜していた恩人が突然現れたのに、あの時の礼も言えず桜田は茫然と立ち尽くすばかりです。やがて 汽車は汽笛を鳴らすと、ゆっくりと桜田の横を走り去って行きました。
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最後部の客車はオハフ 35の様で、サボは不鮮明ながらも新潟行の様に見えます。桜田が獄中にいる間 お園の面倒を親代わりになってみていたのも小洗と聞いて、益々恩義を感じてしまい苦悩する桜田なのでした。







PS.

新津駅と設定した このロケ地は何処?と考えると、機関車と雰囲気から福知山駅を思い浮かべてしまいます。ロケの行われた頃はヨンサントオもあって、蒸機の活躍場が急速に減っていた時期で 撮影には苦労したことと思います。

昭和初期の時代設定なので、駅名板に(ついに)と右読み表記したのでしょう。しかし隣駅に(ついにしがひ)と書いてありますが、東新津駅は 1952年2月に開業した磐越西線の駅なのです。
たぶん大映京都の美術さんが製作したので、新潟県に馴染みが薄かったのでしょう。

主役の市川雷蔵はこの映画公開の僅か5ヶ月後 37歳の若さで病死し、本作が遺作となってしまいました。

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196. 永訣(わかれ)

1969年2月 松竹 製作 公開  カラー作品   監督 大庭秀雄

萩中学の生徒 小野寺牧人(舟木一夫)と戦争未亡人の行友夕子(大空真弓)の微妙な距離感を、亡夫の後輩 戎能忠之(緒形拳)との三角関係を絡めて描く 戦時青春映画です。

海兵で一期先輩である大月の墓参りに呉から長躯 萩までやって来た海軍士官 戒能の帰りを、萩駅ホームで小野寺と夕子が見送る場面に鉄道シーンが有ります。
先ずは長門区所属のD51 732 蒸機が汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き出します。
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旧表記の駅名版の在るホームでは、学ラン姿の小野寺と和服の夕子が戒能を見送っています。
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列車のデッキに立つ戒能は、士官軍服姿で敬礼しています。
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他にも大勢の見送り人がいる中、列車は萩駅ホームを離れて行くのです。
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小野寺が「呉からだと片道9時間は掛かる」と言えば、夕子は「船の上での仲って女の私達には想像できない位 深いもので、兄弟以上の仲だそうです」と信頼している様子です。
車内へ入った戒能は白い枕カバーの掛かった二等車座席に座って車窓を眺めています。
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列車は日本海沿いにゆっくりと長門方面へと進んで行きます。
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戒能の影響もあって海兵へと入学した小野寺は、終戦となり萩へと戻ります。その際 萩駅から降りて来て、駅前が闇市だらけで激変していて戸惑っている様子です。
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この萩駅舎は 1925年4月開業時から現存している風格ある木造駅舎なので、ロケ当時も駅名板を旧表記に替える程度で撮影が行われたと思われます。

町の玄関駅として建築された萩駅舎であり 作中の時代でも快速列車の停車駅でしたが、町の中心が隣の東萩駅となり現在では 優等列車はこの東萩のみが停車駅です。
作中の時代 夜行の快速列車は東萩駅を通過でしたが、戦後になって東萩・萩の両駅停車となり 1959年9月新設の準急やくも号で初めて萩駅通過となり現在に至っています。

作中で小野寺が「呉からだと片道9時間は掛かる」とサラット言いますが、当時の時間表(1942年11月号より時刻表と改名)で検証してみます。

 萩 7:30 ー( 217ㇾ )ー 8:07 正明市(現 長門市)8:17 ー( 704ㇾ ) ー 9:19 伊佐(現 南大嶺)9:21 ー( 722ㇾ )ー 9:50 厚狭 10:38 ー( 42ㇾ東京行)ー 15:34 廣島 15:46 ー( 334ㇾ)ー 16:31 呉  
このように乗り継いで、所用9時間1分とピタリでした。ちなみに現在でも各停では、7時間12分掛かります。



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129. 執炎

1964年11月 日活 製作 公開   監督 蔵原惟繕

山陰 香住町の網元の長男 吉井拓治(伊丹一三 → 伊丹十三)と山間に住む平家末裔の久坂きよの(浅丘ルリ子)が結婚するも、戦争に依って引き裂かれる悲劇を描いた映画です。

冒頭 拓治 のいとこ 野原泰子(芦川いづみ)が、きよの の七回忌出席の為 山陰本線 餘部駅に降り立つ場面があります。
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遠景で余部鉄橋を渡り、小さな餘部駅から泰子が降りて来ました。
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劇中この法事は 1951年頃の設定なので 1959年4月 請願により開業した餘部駅は存在しない訳ですが、この映画では全編で余部鉄橋と餘部駅が重要な役割を果たしているので御理解下さい。

拓治が成人し、海軍から徴兵されたので三年間の兵役に服することになりました。出頭前 きよの と幸せな時を過ごしている場面で、見上げれば雄大な余部鉄橋がそこには有ります。
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そして きよの と余部鉄橋の上で戯れる場面で、9600形蒸機列車に出くわすシーンなどもあります。
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続いて拓治 出発の日、きよの の姿が無い餘部駅から弟達の見送りを受け 旅立ちました。
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つらい三年間の兵役が終了し 拓治が9600形蒸機に牽かれて餘部駅へ帰って来るシーンの後、二人は結婚し ひと時の幸せが訪れます。しかし戦争が始まり、拓治にも召集令状が届けられます。
今度は妻として きよの も参加して地区を挙げての盛大な見送りを受け、拓治は 19645蒸機に牽かれて出征して行きます。
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余部鉄橋の上でも窓から旗を振り、紙吹雪を撒きながら去り行きます。
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その後 拓治の弟 秀治(平田大三郎)と きよの が余部鉄橋を歩いて渡る場面では、D51751蒸機が前方から現れ橋の途中にある待避所でやり過ごします。でも耳を塞いで震えているのは秀治の方です。
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ある日海軍から拓治が足に重傷を負って佐世保の海軍病院に入院したとの通知があり、きよの は列車を乗り継ぎ駆け付けます。この場面では、きよの が暗い顔で列車に揺られるカットがあるだけです。

きよの の献身的な看病と二人で貫いた執念のリハビリで、拓治の体は奇跡的に回復します。しかしそれを見透かしたかの様に、非情にも二度目の召集令状が拓治の元に届けられました。
吹雪の餘部駅。 今度の出征見送りは二人だけです。名残惜しむ内、吹雪をついて C57形蒸機牽引列車が到着します。
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きよの は雪中に消えて行く列車を、悲しみを堪えて見送っている様です。
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以上 この映画では餘部駅と余部鉄橋が登場する鉄道シーンが数多く有り、そこには時代に翻弄された悲喜こもごもの人々の姿があります。1912年完成の美しく力強い余部鉄橋も 2010年夏、二代目の余部橋梁へと引き継がれました。

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