
1962年9月 松竹 製作 公開 監督 野村芳太郎
菅野(園井啓介)の記憶は 脳手術からの回復と共に 戻ってきましたが、葉子(桑野みゆき)は 姑や兄夫婦から責められ 下関・長崎・宮崎と移動し 遂には離婚訴訟へと至る 波乱の第二部です。
葉子は医者から依頼されて 菅野を度々見舞ったことを 姑(沢村貞子)から叱責され 兄(南原宏冶)の家に帰されますが、兄夫婦からも責められ 夫に頼んでいた菅野の仕事の件も 取止めとなった絶望感から 遂に実家へ向かうべく 夜行列車に乗りました。
入場券で 列車に乗った葉子は、車掌が通ったので 佐世保までの切符を願い出ます。すると その声を聞いた 菅野担当の派出看護婦 町田トキ(左幸子)が声を掛け、

トキの実家のある下関に 身を寄せることにします。
一方菅野の友人 藤川(山内明)は 北海道へ転勤することになり、上野駅8番線では 菅野・柏村綾(千之赫子)・チカ坊(中山千夏)から 見送りを受けています。

菅野に別れの話をしている藤川が 綾が泣いているのに気付くと

発車ベルが鳴り終わり、綾は「私 一緒に乗って行こうかな」と言うなり デッキに飛び乗ってしまいました。
チカ坊が「賛成!一緒に北海道へ行っちゃいなよ」と 二人を祝し 藤川が驚いて「荷物も持たないで!」と 窘めると、綾は「もう荷物はチッキで送ったの マダムがそうしろって」と言います。

菅野も「いいじゃないですか」と笑顔です。

こうして 菅野とチカ坊は、二人の幸せを祈りながら 見送るのでした。


その後 藤川からの手紙で 葉子がトキの実家に 身を寄せていることを知った菅野は 下関へ行きますが、一日違いで 葉子は長崎の実家へ 帰ってしまったと聞かされ 長崎県平戸の 生月島へと向かいます。
しかし 実家には 父親(加藤嘉)しか居らず、「兄が迎えに来て、今朝早く 夫 沢野(穂積隆信)が滞在している 宮崎へ向かった」と言うばかりでした。
菅野はそのまま 東京へ戻るつもりでしたが 小倉駅で迷い、


諦めきれず 引きずられる様に 葉子に会って確かめたい気持ちから 宮崎へと行きます。

宮崎のホテルで葉子は 沢野と会って謝罪しますが、互いに冷淡な二人です。翌早朝 浜辺を散歩する葉子は 菅野に偶然再会し お互いの愛情を確認するも、どうにもならない現実に直面し 菅野は宮崎駅から帰京します。

更に菅野と葉子が 浜辺で会っている所を、沢野の秘書 麻美(岩崎加根子)に目撃されてしまいます。その後 菅野と別れ 部屋に帰ると、沢野と麻美が 抱き合っている現場を見て 愕然とする葉子でした。
また 娘のことを心配した 葉子の父は 宮崎に駆け付け、

結婚の件を 兄に一任したことを 葉子に謝罪します。
その後 葉子は夫と別居し 働きながら離婚調停しますが、沢野が同意しないので 裁判となりました。地裁での公判で 田代弁護士(須賀不二夫)に 協力する約束だった麻美が、沢野の買収で寝返り 葉子は俄然不利な 状況になります。
そんな折に 菅野はカンボジアでの 長期の仕事が決まり、絶望感の葉子を誘って 思い出の信州へ向かうべく 新宿駅から夜行列車に乗りました。


翌早朝 朝まだきの駅に 降り立った二人は

思い出の山小屋で話し合い、何時の日か結婚することを 再び誓い合うのでした。
そして 一審で敗訴した葉子は 控訴する決意を固め、前を向いて 数寄屋橋を歩く姿が ラストシーンです。

第三部へ続く・・・
PS.
タイトルクレジットの バックで 帝都高速度交通営団 丸ノ内線 四ツ谷駅沿いの 外堀通りを歩く 葉子が映っていますが、背後に 赤い丸ノ内線車輌と すれ違う銀座線車輌が 映っています。

これは本作公開前年の 1961年2月に 丸ノ内線の延長である 新宿~中野坂上(荻窪線)・中野坂上~中野富士見町(通称:方南町支線)が開通し、同時に 中野検車区が出来たので 整備・検査が終わった銀座線車輌が回送されている姿と思われます。
1枚目の画像は セット撮影ですが、デッキへの扉 右上の表示が オロ51です。二等座席車輌なので 架空にしても、せめて オロハ51と 書いてほしかったですね。
2枚目からの 見送りシーン画像は 上野駅ではなく、国鉄協力の元 両国駅で 普通列車に 急行(いわて)の札を入れて ロケが行われたのでは?と 想像します。(第一部の4・8枚目の 画像場面撮影も 両国駅?!)
当時の 19レ急行いわて号は 上野駅8番線から 22:00に発車し、翌日11:37青森に到着し 12:15発の 青函連絡船19便に接続 函館からは 17:05発の19レ 気動車急行すずらん号に接続 終着札幌に 22:03着でした。
ところが 当時の上野駅から発車する 長距離列車は 1号車が最後尾と 逆向き編成で、画像の様に 4号車側が前ではありません。いわて号も 12号車が先頭で 藤川が乗った5号車は 二等座席車ではなく 二等寝台車で、5号車より後部も 一・二等寝台車と 一等車でした。
8枚目の画像は 小倉駅での撮影ですが、左隣駅が 現在の西小倉とは違い 戸畑と南小倉です。これは現在の共通隣駅 西小倉が 日豊本線の単独駅として 1974年に開業し、鹿児島本線の隣駅は 1970年に新中原駅(現:九州工大前)が新設されるまで 戸畑駅だったからです。
更に1987年 西小倉にも 鹿児島本線のホームが新設され、現在の様に隣駅が 西小倉に統一されています。
12枚目の画像は 宮崎駅を 13:47に出発する 36レ急行高千穂号 東京行と思われます。当時唯一の 東京行 直通急行列車で、到着は 16:50でした。(但し翌日の16:50で、所要27時間3分)
続く画像は 新宿駅を出発する スロ54形一等車に乗る 菅野と葉子の二人ですが 作中から推定すると、新宿23:30発 1407レ臨時準急 白樺2号松本行で 茅野5:09の画像15に繋がります。
しかし 逆向き発進は 有り得ず ロケの混乱を避ける為、新宿駅に 早朝4:20到着した 1408レ臨時準急 白樺2号を 回送する時に 乗せてもらい ロケしたのでは?と 推定します。
最後の画像は 晴海通り 数寄屋橋付近を走る ボンネット型都バスと、後方に 都電8・9・11系統の 何れかが 映っています。銀座を走る ボンネット型路線バスの、末期だった様に思えます。
(あの橋の畔で 第二部)は 多彩な鉄道シーンはもとより、 製作費をつぎ込んだ 現地でのロケが多く 内容的にも高水準の作品です。 №401での、後半にご期待ください。
菅野(園井啓介)の記憶は 脳手術からの回復と共に 戻ってきましたが、葉子(桑野みゆき)は 姑や兄夫婦から責められ 下関・長崎・宮崎と移動し 遂には離婚訴訟へと至る 波乱の第二部です。
葉子は医者から依頼されて 菅野を度々見舞ったことを 姑(沢村貞子)から叱責され 兄(南原宏冶)の家に帰されますが、兄夫婦からも責められ 夫に頼んでいた菅野の仕事の件も 取止めとなった絶望感から 遂に実家へ向かうべく 夜行列車に乗りました。
入場券で 列車に乗った葉子は、車掌が通ったので 佐世保までの切符を願い出ます。すると その声を聞いた 菅野担当の派出看護婦 町田トキ(左幸子)が声を掛け、

トキの実家のある下関に 身を寄せることにします。
一方菅野の友人 藤川(山内明)は 北海道へ転勤することになり、上野駅8番線では 菅野・柏村綾(千之赫子)・チカ坊(中山千夏)から 見送りを受けています。

菅野に別れの話をしている藤川が 綾が泣いているのに気付くと

発車ベルが鳴り終わり、綾は「私 一緒に乗って行こうかな」と言うなり デッキに飛び乗ってしまいました。
チカ坊が「賛成!一緒に北海道へ行っちゃいなよ」と 二人を祝し 藤川が驚いて「荷物も持たないで!」と 窘めると、綾は「もう荷物はチッキで送ったの マダムがそうしろって」と言います。

菅野も「いいじゃないですか」と笑顔です。

こうして 菅野とチカ坊は、二人の幸せを祈りながら 見送るのでした。


その後 藤川からの手紙で 葉子がトキの実家に 身を寄せていることを知った菅野は 下関へ行きますが、一日違いで 葉子は長崎の実家へ 帰ってしまったと聞かされ 長崎県平戸の 生月島へと向かいます。
しかし 実家には 父親(加藤嘉)しか居らず、「兄が迎えに来て、今朝早く 夫 沢野(穂積隆信)が滞在している 宮崎へ向かった」と言うばかりでした。
菅野はそのまま 東京へ戻るつもりでしたが 小倉駅で迷い、


諦めきれず 引きずられる様に 葉子に会って確かめたい気持ちから 宮崎へと行きます。

宮崎のホテルで葉子は 沢野と会って謝罪しますが、互いに冷淡な二人です。翌早朝 浜辺を散歩する葉子は 菅野に偶然再会し お互いの愛情を確認するも、どうにもならない現実に直面し 菅野は宮崎駅から帰京します。

更に菅野と葉子が 浜辺で会っている所を、沢野の秘書 麻美(岩崎加根子)に目撃されてしまいます。その後 菅野と別れ 部屋に帰ると、沢野と麻美が 抱き合っている現場を見て 愕然とする葉子でした。
また 娘のことを心配した 葉子の父は 宮崎に駆け付け、

結婚の件を 兄に一任したことを 葉子に謝罪します。
その後 葉子は夫と別居し 働きながら離婚調停しますが、沢野が同意しないので 裁判となりました。地裁での公判で 田代弁護士(須賀不二夫)に 協力する約束だった麻美が、沢野の買収で寝返り 葉子は俄然不利な 状況になります。
そんな折に 菅野はカンボジアでの 長期の仕事が決まり、絶望感の葉子を誘って 思い出の信州へ向かうべく 新宿駅から夜行列車に乗りました。


翌早朝 朝まだきの駅に 降り立った二人は

思い出の山小屋で話し合い、何時の日か結婚することを 再び誓い合うのでした。
そして 一審で敗訴した葉子は 控訴する決意を固め、前を向いて 数寄屋橋を歩く姿が ラストシーンです。

第三部へ続く・・・
PS.
タイトルクレジットの バックで 帝都高速度交通営団 丸ノ内線 四ツ谷駅沿いの 外堀通りを歩く 葉子が映っていますが、背後に 赤い丸ノ内線車輌と すれ違う銀座線車輌が 映っています。

これは本作公開前年の 1961年2月に 丸ノ内線の延長である 新宿~中野坂上(荻窪線)・中野坂上~中野富士見町(通称:方南町支線)が開通し、同時に 中野検車区が出来たので 整備・検査が終わった銀座線車輌が回送されている姿と思われます。
1枚目の画像は セット撮影ですが、デッキへの扉 右上の表示が オロ51です。二等座席車輌なので 架空にしても、せめて オロハ51と 書いてほしかったですね。
2枚目からの 見送りシーン画像は 上野駅ではなく、国鉄協力の元 両国駅で 普通列車に 急行(いわて)の札を入れて ロケが行われたのでは?と 想像します。(第一部の4・8枚目の 画像場面撮影も 両国駅?!)
当時の 19レ急行いわて号は 上野駅8番線から 22:00に発車し、翌日11:37青森に到着し 12:15発の 青函連絡船19便に接続 函館からは 17:05発の19レ 気動車急行すずらん号に接続 終着札幌に 22:03着でした。
ところが 当時の上野駅から発車する 長距離列車は 1号車が最後尾と 逆向き編成で、画像の様に 4号車側が前ではありません。いわて号も 12号車が先頭で 藤川が乗った5号車は 二等座席車ではなく 二等寝台車で、5号車より後部も 一・二等寝台車と 一等車でした。
8枚目の画像は 小倉駅での撮影ですが、左隣駅が 現在の西小倉とは違い 戸畑と南小倉です。これは現在の共通隣駅 西小倉が 日豊本線の単独駅として 1974年に開業し、鹿児島本線の隣駅は 1970年に新中原駅(現:九州工大前)が新設されるまで 戸畑駅だったからです。
更に1987年 西小倉にも 鹿児島本線のホームが新設され、現在の様に隣駅が 西小倉に統一されています。
12枚目の画像は 宮崎駅を 13:47に出発する 36レ急行高千穂号 東京行と思われます。当時唯一の 東京行 直通急行列車で、到着は 16:50でした。(但し翌日の16:50で、所要27時間3分)
続く画像は 新宿駅を出発する スロ54形一等車に乗る 菅野と葉子の二人ですが 作中から推定すると、新宿23:30発 1407レ臨時準急 白樺2号松本行で 茅野5:09の画像15に繋がります。
しかし 逆向き発進は 有り得ず ロケの混乱を避ける為、新宿駅に 早朝4:20到着した 1408レ臨時準急 白樺2号を 回送する時に 乗せてもらい ロケしたのでは?と 推定します。
最後の画像は 晴海通り 数寄屋橋付近を走る ボンネット型都バスと、後方に 都電8・9・11系統の 何れかが 映っています。銀座を走る ボンネット型路線バスの、末期だった様に思えます。
(あの橋の畔で 第二部)は 多彩な鉄道シーンはもとより、 製作費をつぎ込んだ 現地でのロケが多く 内容的にも高水準の作品です。 №401での、後半にご期待ください。


