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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

391.あの橋の畔で 第二部

1962年9月 松竹 製作 公開   監督 野村芳太郎

菅野(園井啓介)の記憶は 脳手術からの回復と共に 戻ってきましたが、葉子(桑野みゆき)は 姑や兄夫婦から責められ 下関・長崎・宮崎と移動し 遂には離婚訴訟へと至る 波乱の第二部です。

葉子は医者から依頼されて 菅野を度々見舞ったことを 姑(沢村貞子)から叱責され 兄(南原宏冶)の家に帰されますが、兄夫婦からも責められ 夫に頼んでいた菅野の仕事の件も 取止めとなった絶望感から 遂に実家へ向かうべく 夜行列車に乗りました。

入場券で 列車に乗った葉子は、車掌が通ったので 佐世保までの切符を願い出ます。すると その声を聞いた 菅野担当の派出看護婦 町田トキ(左幸子)が声を掛け、
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トキの実家のある下関に 身を寄せることにします。

一方菅野の友人 藤川(山内明)は 北海道へ転勤することになり、上野駅8番線では 菅野・柏村綾(千之赫子)・チカ坊(中山千夏)から 見送りを受けています。
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菅野に別れの話をしている藤川が 綾が泣いているのに気付くと
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発車ベルが鳴り終わり、綾は「私 一緒に乗って行こうかな」と言うなり デッキに飛び乗ってしまいました。

チカ坊が「賛成!一緒に北海道へ行っちゃいなよ」と 二人を祝し 藤川が驚いて「荷物も持たないで!」と 窘めると、綾は「もう荷物はチッキで送ったの マダムがそうしろって」と言います。
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菅野も「いいじゃないですか」と笑顔です。
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こうして 菅野とチカ坊は、二人の幸せを祈りながら 見送るのでした。
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その後 藤川からの手紙で 葉子がトキの実家に 身を寄せていることを知った菅野は 下関へ行きますが、一日違いで 葉子は長崎の実家へ 帰ってしまったと聞かされ 長崎県平戸の 生月島へと向かいます。
しかし 実家には 父親(加藤嘉)しか居らず、「兄が迎えに来て、今朝早く 夫 沢野(穂積隆信)が滞在している 宮崎へ向かった」と言うばかりでした。

菅野はそのまま 東京へ戻るつもりでしたが 小倉駅で迷い、
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諦めきれず 引きずられる様に 葉子に会って確かめたい気持ちから 宮崎へと行きます。
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宮崎のホテルで葉子は 沢野と会って謝罪しますが、互いに冷淡な二人です。翌早朝 浜辺を散歩する葉子は 菅野に偶然再会し お互いの愛情を確認するも、どうにもならない現実に直面し 菅野は宮崎駅から帰京します。
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更に菅野と葉子が 浜辺で会っている所を、沢野の秘書 麻美(岩崎加根子)に目撃されてしまいます。その後 菅野と別れ 部屋に帰ると、沢野と麻美が 抱き合っている現場を見て 愕然とする葉子でした。

また 娘のことを心配した 葉子の父は 宮崎に駆け付け、
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結婚の件を 兄に一任したことを 葉子に謝罪します。

その後 葉子は夫と別居し 働きながら離婚調停しますが、沢野が同意しないので 裁判となりました。地裁での公判で 田代弁護士(須賀不二夫)に 協力する約束だった麻美が、沢野の買収で寝返り 葉子は俄然不利な 状況になります。

そんな折に 菅野はカンボジアでの 長期の仕事が決まり、絶望感の葉子を誘って 思い出の信州へ向かうべく 新宿駅から夜行列車に乗りました。
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翌早朝 朝まだきの駅に 降り立った二人は
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思い出の山小屋で話し合い、何時の日か結婚することを 再び誓い合うのでした。
そして 一審で敗訴した葉子は 控訴する決意を固め、前を向いて 数寄屋橋を歩く姿が ラストシーンです。  
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第三部へ続く・・・





PS.
  タイトルクレジットの バックで 帝都高速度交通営団 丸ノ内線 四ツ谷駅沿いの 外堀通りを歩く 葉子が映っていますが、背後に 赤い丸ノ内線車輌と すれ違う銀座線車輌が 映っています。
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  これは本作公開前年の 1961年2月に 丸ノ内線の延長である 新宿~中野坂上(荻窪線)・中野坂上~中野富士見町(通称:方南町支線)が開通し、同時に 中野検車区が出来たので 整備・検査が終わった銀座線車輌が回送されている姿と思われます。

  1枚目の画像は セット撮影ですが、デッキへの扉 右上の表示が オロ51です。二等座席車輌なので 架空にしても、せめて オロハ51と 書いてほしかったですね。

  2枚目からの 見送りシーン画像は 上野駅ではなく、国鉄協力の元 両国駅で 普通列車に 急行(いわて)の札を入れて ロケが行われたのでは?と 想像します。(第一部の4・8枚目の 画像場面撮影も 両国駅?!)

  当時の 19レ急行いわて号は 上野駅8番線から 22:00に発車し、翌日11:37青森に到着し 12:15発の 青函連絡船19便に接続 函館からは 17:05発の19レ 気動車急行すずらん号に接続 終着札幌に 22:03着でした。
  ところが 当時の上野駅から発車する 長距離列車は 1号車が最後尾と 逆向き編成で、画像の様に 4号車側が前ではありません。いわて号も 12号車が先頭で 藤川が乗った5号車は 二等座席車ではなく 二等寝台車で、5号車より後部も 一・二等寝台車と 一等車でした。

  8枚目の画像は 小倉駅での撮影ですが、左隣駅が 現在の西小倉とは違い 戸畑と南小倉です。これは現在の共通隣駅 西小倉が 日豊本線の単独駅として 1974年に開業し、鹿児島本線の隣駅は 1970年に新中原駅(現:九州工大前)が新設されるまで 戸畑駅だったからです。
  更に1987年 西小倉にも 鹿児島本線のホームが新設され、現在の様に隣駅が 西小倉に統一されています。

  12枚目の画像は 宮崎駅を 13:47に出発する 36レ急行高千穂号 東京行と思われます。当時唯一の 東京行 直通急行列車で、到着は 16:50でした。(但し翌日の16:50で、所要27時間3分)

  続く画像は 新宿駅を出発する スロ54形一等車に乗る 菅野と葉子の二人ですが 作中から推定すると、新宿23:30発 1407レ臨時準急 白樺2号松本行で 茅野5:09の画像15に繋がります。
  しかし 逆向き発進は 有り得ず ロケの混乱を避ける為、新宿駅に 早朝4:20到着した 1408レ臨時準急 白樺2号を 回送する時に 乗せてもらい ロケしたのでは?と 推定します。

  最後の画像は 晴海通り 数寄屋橋付近を走る ボンネット型都バスと、後方に 都電8・9・11系統の 何れかが 映っています。銀座を走る ボンネット型路線バスの、末期だった様に思えます。



  (あの橋の畔で 第二部)は 多彩な鉄道シーンはもとより、 製作費をつぎ込んだ 現地でのロケが多く 内容的にも高水準の作品です。  №401での、後半にご期待ください。

  

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280.海を渡る波止場の風

1960年5月 日活 製作 公開  カラー作品   監督 山崎徳次郎

謎の現金輸送セスナ機遭難事件が起き 許婚者であるパイロットを求め鹿児島へ父と向かう塚越尚子(浅丘ルリ子)や、真相を求める野村浩次(小林旭)の活躍を描く「流れ者シリーズ第二弾」のアクション映画です。

冒頭 事故の一部始終が映った後 鹿児島へ向かう列車の二等席に向かい合って座る塚越親子ですが、尚子は事件を報じた新聞を読んでいます。
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父の塚越大作(山内明)は「そんなに思い詰めない方が良い」と諭します。
新聞を置いた尚子が「桜島へ行って光彦さんの墜落現場を見たい」と言うと、塚越は「そんなものを見ても何にもならんよ」とにべもありません。そして最後に蒸機の汽笛音が聞こえて来ます。
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鉄道シーンは最初と最後にしかありませんが、奥山五郎(宍戸錠)に襲われるピンチを尚子は何度も野村に助けられます。
事件が解決した最後に尚子は重傷の光彦(青山恭二)に会えますが、いつしか野村に心が傾いてきた様です。

最後 野村が鹿児島を離れる場面では、先ず今は使われていない鹿児島駅1番ホームに停まる列車に尚子が歩いて行きます。改札口から近いこの辺りでは、現存する2番ホーム側にしか屋根はありません。
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アフレコらしき放送が「まもなく1番線より13:20発 鹿児島本線・山陽線・東海道線周り、上り東京行 急行きりしま号が発車します」と流れる中、尚子は野村を捜してホームを歩きますが見つかりません。
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やがて発車ベルが鳴り響き、助役さんの合図で汽笛が鳴り
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蒸機の動輪が動き出します。
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尚子は小走りで更に野村を捜して、ホームを前方へ移動して行きます。
その時 客車最後部(最後部は荷物車)の、デッキに立つ白いスーツ姿の野村に気付きます。
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尚子は「浩次さん!」と声を掛けますが、野村は無言で手を振るだけです。
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更に尚子は列車を追い駆けながら「浩次さん!」と3回声を掛けますが、
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デッキから身を乗り出して手を振るだけで 最後は尚子に応えるかの様に2度汽笛が鳴って 涙する尚子を残して去り行くのでした。
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続いて 次の竜ヶ水駅との間にあるトンネルを抜けて来た、C556蒸機が牽く列車が映ります。現在の吉野町 花倉・上花倉バス停の中間にある短いトンネルと思われます。
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次に海越しに桜島を臨みながら走る区間で、ドアを開けたままのデッキで物思いにふける野村がいます。
その次には背後に桜島を臨みながら、C55 34蒸機が5両の客車を牽いて走り抜けて行きます。
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涙をハンケチで拭きつつ尚子は左手に鹿児島客車区を臨みながら、吹っ切れたかの様に改札口方向へゆっくり歩いて行きます。
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最後は 遠く桜島を背後に臨む、帖佐~錦江にある別府川橋梁らしきを渡る蒸機列車が映りながらエンドマークとなります。

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PS.

 東京から鹿児島へ塚越社長親子は列車で行くのですから、当時最速の9レ特別急行はやぶさ号(東京19:00発―鹿児島17:50着)に乗ったと思われます。
その二等座席車内シーンはセット撮影の様ですが(本物は肘掛の付いたスロ54かナロ10形)、寝台車から朝食後に9:40着の小郡で二等座席に乗り換えたと想像します。

本作の撮影期間(5月2日~5月21日)ならば鹿児島の日没が19時過ぎなので、是非17:50の特別急行はやぶさ鹿児島駅到着シーンを入れて欲しかったですね。
本作公開後2か月で特別急行はやぶさは旧型客車から20系ブルートレイン化され、それまで通過!していた西鹿児島駅発着と変更され 鹿児島駅まで来なくなっただけに残念です。

 鹿児島駅の1番線から鹿児島本線経由の東京行 急行きりしま号が発車していますが、今は無き1番線は日豊本線側にしか行き来できない行き止まり線の終端ホームでした。
どうやら撮影用に仕立てられた列車の様で急行札に東京行(博多経由)のサボを取り付け荷物車を含めて8両編成ですが、号車番号札は無く 帯付きの 二等車も連結されていません。

 撮影に際して大勢のエキストラを動員し、後部2両の客車に集中して乗せ 撮影した様です。アフレコと思われる構内放送は、1番線の事以外は急行きりしま号の正確な内容です。
1・2番線ホームを閉鎖して多くの駅員を配置して撮影が行われた様で、10枚目の画像で3番線停車中の列車の窓やデッキから多くの人が顔を出して1番線のロケを見ていて ちょっとした騒ぎです。

 普通の映画であれば、野村が手を振りながら尚子の前から去って行ったところでエンドマークでしょう。
しかしこの映画では、桜島をバックにした撮影名所で蒸機牽引列車のサービスカット?が続きます。鉄道ファンとしては嬉しいのですが、何れも急行きりしま号の走らない日豊本線での撮影です。
C55形蒸機は共に宮崎機関区所属で、西鹿児島(鹿児島)~宮崎の運用にあたっていた普通列車を撮影した模様です。

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 71. 太平洋のかつぎ屋

1961年1月 日活 製作 公開   カラー作品    監督 松尾昭典

冤罪によって日新航空パイロットの職を失った立花哲次( 小林旭 )が、パシフィックポーターズ社でパイロットに復帰し冤罪も晴らす迄を描いた航空アクション映画です。

失業した立花を母校 航空大学校長の品田恭太郎(二本木寛)が教官として呼んでくれました。しかし禁を破って空を飛んだ立花はクビとなり、東京へ舞い戻ることになります。
この映画唯一の鉄道シーンが、宮崎駅で一日一本しかない東京直通急行 高千穂号に乗る立花を品田の娘 品田典子(浅丘ルリ子)が見送る場面であります。

まずホームの駅名板が映り、
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2番線に急行 高千穂号が立花と典子が並んで歩く中を DF50 555を先頭に71-2.jpg
次位に C55 の補機を従えて入線してきました。71-3.jpg

本来は DF50 の単独牽引のはずですが、調子が悪いので C55 を助っ人に繋いでいるのでしょうか? 。高千穂は宮崎で8分停車し、3等車2両を増結します。

別れ際 立花は「もっと悲しそうな顔をするかと思ったぜ」と言うのに典子は「思うことをやれる。こんな幸せな人をどうして悲しい顔で送らなきゃならないの」と笑顔です。71-4.jpg

そして典子が手を振る中、高千穂は加速して行きます。跨線橋の階段下には売店が有り、その横に雑誌や新聞を売る台車が有ります。高架駅となった現状からは想像できません。

急行高千穂は 1951年11月より宮崎県から初の東京直通急行たかちほ として、熊本行の急行と併結列車として東京~都城で運転開始。
1956年11月からは単独列車となり東京~西鹿児島(日豊本線経由)を走破する急行高千穂となり、所要31時間28分の国内最長距離運転列車として新幹線博多開業まで走りました。

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