
1941年10月 東宝 製作 公開 監督 熊谷久虎
戦地で機関士として 軍用列車を運転出来る様に 鉄道連隊の特業兵を、短期間での猛特訓で 指導する様子と 師弟愛を描いた 良質な国策映画です。
千葉機関区の 老機関士 瀬木角市(丸山定夫)は 機関助士 北原實(北沢彪)と 組んで乗務した帰りに、省線電車が走る線路際を 二人で話しながら歩いています。

右側が千葉機関区の西端で、給水塔の下に気動車があり 左側を三連の省線電車が走っています。
やがて千葉機関区で受け入れた 16名の特業兵の内、母子家庭育ちの 佐川新太郎(藤田進)が 8620形蒸機の前で瀬木と初対面です。

指導する内 佐川を気に入った瀬木は 機関車の専門書を古書店で購入し、翌日 早目に出勤して カマの点検をして佐川を待ちます

一方佐川は 鉄道連隊を出て、省線電車で仲間と千葉機関区へと向かいます。

佐川が現れると 瀬木は駆け寄って、アメリカ製B6の 2500形蒸機をバックに渡すと 感激する佐川です。

機関区には 瀬木の長女邦子(原節子)が現れ

慌てて忘れた弁当を瀬木に渡し、「こんな事は初めてだわ」と言いつつ 佐川と初対面するのでした。

その後 瀬木の厳しい指導に なんとか応える ある日、

千葉駅で 盛大な出征見送りが行われている中 バックで機関区へ向かいます。

房総線ホームに 停車しているのは、区間運転用の キハ42000形気動車でしょうか。やがて機関区の 扇形庫をバックに、転車台に載り 帰庫となります。

佐川が 蒸機の運転に大分慣れて 快調に走っていた折に、並走区間で 左側から同僚の特業兵 草野淳(中村彰)が運転する C58217牽引列車に抜かれて行きます。

これを見た瀬木は 佐川に加速する様命じて、一時は最後部まで 完全に抜かれていた隣の列車を 抜き返してしまいます。
すると 隣の指導機関士 田町信治(藤輪欣司)も草野にハッパを掛け、再び抜き返す 217号機と218号機の併走状態となります。


やがて並走区間は終わり、草野が運転する列車が 左カーブで離れて行きます。

田町機関士と志村淳三機関助士(津田光男)でしょうか、爽やかに手を振りながら 去り行きました。

それからも 佐川の訓練運転は 昼に夜に続き 御宿駅で対向列車の到着を待っていると、助役が飛んで来て 佐川に「至急隊の方へ帰る様に電話があった」と伝えました。

そこへ対向列車が到着したので、佐川は急いで 先頭の機関室へ乗り込みました。

するとそこには 草野が乗務していたので 最後の機会と機関士にお願いして、草野が機関士・佐川が機関助士として組んで

海辺を走らせたのでした。

いよいよ佐川達が出征する日 佐倉駅全てのホームには、大勢の見送り人で溢れています。邦子達三姉妹も割烹着に(大日本國防婦人會)の襷を掛けて、国旗を手に並んでいます。 C58202号機が牽く客車には 出征兵士が大勢乗り込み、

ホームの見送り人と 別れの挨拶を交わす人もいます。佐川の母親も 遠路はるばる、前夜に駆け付けることが出来ました。
やがて汽笛と共に 列車が動き出すと、見送り人達は 一斉に万歳の連呼です。

列車が機関区の前に来ると全職員が総出で、特業兵士が乗る列車を見送ります。

草野を見送りたい田町は列車に駆け寄り、瀬木も追い駆けて 佐川と最後の別れを交わすことが出来ました。


PS.
中国との戦争が5年目に入り 太平洋戦争開戦の2か月前に 公開された本作は、国策に従って製作されながらも 暗くなる世相・別れの悲しみ・仄かな恋心・喜劇心を表現できた 最後の戦中映画かもしれません。
撮影は 1941年冬から8か月間に及びましたが、鉄道省の後援もあって 千葉機関区の協力の元で 併走シーン等の 画期的な撮影も出来ました。
小生が本作の製作に 影響を与えたと思う映画は、NHKの番組で一部放送された 1940年鉄道省 製作映画(機関車物語)です。その中で併走場面こそありませんが、10m程の距離を保って同速度で走りながら 後方を走る C57形蒸機の前面走行シーンを撮っています。
むしろ苦心したのは 機関室のセット製作と、実写では光量不足で不可能な 夜間走行シーンを ミニチュアで行った撮影だったそうです。

機関室のセット製作は 鉄道省に相談し 560kg以上に及ぶ本物の部品を借用して、それに耐えられる 厚いベニヤ板に取り付け 薄鉄板を被せたそうです。
焚口内部は トタン板の上にレンガを積み、外部は木材の骨組みに ベニヤ板の上にトタン板を張って ペンキ3回塗りの上に 煤を押さえて実感を出したそうです。
組立には 大宮工場から 専門家に来てもらい、監修の上に 製作したそうです。このセットは自由に方向転換が可能で 送風機で風・雨・吹雪を再現し、前後左右からスクリーンプロセスで 実写に迫る 臨場感ある作品に 出来上がっています。
一方 C58形蒸機のミニチュアは 当初22分の1模型を 5月頃から製作しようとしましたが、予算を遥かにオーバーしそうなので 鉄道博物館に陳列されている10分の1模型を お願いして借りたそうです。
車内燈付きの木製客車を作り 家屋は15分の1で 各種ジオラマを製作し、9月1日に C58の模型を借り出して 細いワイヤーを巻取り式に引っ張って 動かしたそうです。
(参考:映画技術 1941年11・12月号)
佐川の所属は 鉄道第二連隊と思われ、4枚目の画像で 佐川が乗り込む駅は 津田沼と思われます。
12~15枚目の画像で紹介する 併走シーンは、総武本線佐倉駅を過ぎて 総武本線と成田線が3㎞程に渡って並走する区間で 何度も撮り直して 迫力ある作品へと仕上げています。
上記(機関車物語)の撮影も この区間で撮影されたと思われ、本作の前年に製作されているので 参考資料や撮影方法の意見を頂けたのでは・・・
13枚目の画像は キャブの下に鉄材で組んだ 吊り下げ式の台を作り、カメラを載せて 撮影しています。
続く画像は 炭水車の上でカメラを構えて、両方の蒸機が 併走から別れ行く 迫力あるシーンを見事に捉えています。
それまでの佐倉駅での 出征兵士見送り場面 撮影部分から、何故か一転して 21枚目の画像から 千葉機関区横からの見送りシーンへと 移っています。 去り行く列車の手前には、キハ41000形らしき気動車がいます。
23枚目の画像で 瀬木と田町が客車に駆け寄り 佐川と草野を探すシーンで映っている客車は、ターンバックルも厳つい 木造二重屋根の ホハ12000形客車です。
最後の見送りシーンは 桁外れに大勢の エキストラを動員して感動させ、ラストシーンでは 一転して 仲の悪い瀬木と田町が 師弟愛を表現しつつ 喜劇映画の様な絡み合いで エンドマークとなっている点が 並の国策映画と違うところでしょう。
戦地で機関士として 軍用列車を運転出来る様に 鉄道連隊の特業兵を、短期間での猛特訓で 指導する様子と 師弟愛を描いた 良質な国策映画です。
千葉機関区の 老機関士 瀬木角市(丸山定夫)は 機関助士 北原實(北沢彪)と 組んで乗務した帰りに、省線電車が走る線路際を 二人で話しながら歩いています。

右側が千葉機関区の西端で、給水塔の下に気動車があり 左側を三連の省線電車が走っています。
やがて千葉機関区で受け入れた 16名の特業兵の内、母子家庭育ちの 佐川新太郎(藤田進)が 8620形蒸機の前で瀬木と初対面です。

指導する内 佐川を気に入った瀬木は 機関車の専門書を古書店で購入し、翌日 早目に出勤して カマの点検をして佐川を待ちます

一方佐川は 鉄道連隊を出て、省線電車で仲間と千葉機関区へと向かいます。

佐川が現れると 瀬木は駆け寄って、アメリカ製B6の 2500形蒸機をバックに渡すと 感激する佐川です。

機関区には 瀬木の長女邦子(原節子)が現れ

慌てて忘れた弁当を瀬木に渡し、「こんな事は初めてだわ」と言いつつ 佐川と初対面するのでした。

その後 瀬木の厳しい指導に なんとか応える ある日、

千葉駅で 盛大な出征見送りが行われている中 バックで機関区へ向かいます。

房総線ホームに 停車しているのは、区間運転用の キハ42000形気動車でしょうか。やがて機関区の 扇形庫をバックに、転車台に載り 帰庫となります。

佐川が 蒸機の運転に大分慣れて 快調に走っていた折に、並走区間で 左側から同僚の特業兵 草野淳(中村彰)が運転する C58217牽引列車に抜かれて行きます。

これを見た瀬木は 佐川に加速する様命じて、一時は最後部まで 完全に抜かれていた隣の列車を 抜き返してしまいます。
すると 隣の指導機関士 田町信治(藤輪欣司)も草野にハッパを掛け、再び抜き返す 217号機と218号機の併走状態となります。


やがて並走区間は終わり、草野が運転する列車が 左カーブで離れて行きます。

田町機関士と志村淳三機関助士(津田光男)でしょうか、爽やかに手を振りながら 去り行きました。

それからも 佐川の訓練運転は 昼に夜に続き 御宿駅で対向列車の到着を待っていると、助役が飛んで来て 佐川に「至急隊の方へ帰る様に電話があった」と伝えました。

そこへ対向列車が到着したので、佐川は急いで 先頭の機関室へ乗り込みました。

するとそこには 草野が乗務していたので 最後の機会と機関士にお願いして、草野が機関士・佐川が機関助士として組んで

海辺を走らせたのでした。

いよいよ佐川達が出征する日 佐倉駅全てのホームには、大勢の見送り人で溢れています。邦子達三姉妹も割烹着に(大日本國防婦人會)の襷を掛けて、国旗を手に並んでいます。 C58202号機が牽く客車には 出征兵士が大勢乗り込み、

ホームの見送り人と 別れの挨拶を交わす人もいます。佐川の母親も 遠路はるばる、前夜に駆け付けることが出来ました。
やがて汽笛と共に 列車が動き出すと、見送り人達は 一斉に万歳の連呼です。

列車が機関区の前に来ると全職員が総出で、特業兵士が乗る列車を見送ります。

草野を見送りたい田町は列車に駆け寄り、瀬木も追い駆けて 佐川と最後の別れを交わすことが出来ました。


PS.
中国との戦争が5年目に入り 太平洋戦争開戦の2か月前に 公開された本作は、国策に従って製作されながらも 暗くなる世相・別れの悲しみ・仄かな恋心・喜劇心を表現できた 最後の戦中映画かもしれません。
撮影は 1941年冬から8か月間に及びましたが、鉄道省の後援もあって 千葉機関区の協力の元で 併走シーン等の 画期的な撮影も出来ました。
小生が本作の製作に 影響を与えたと思う映画は、NHKの番組で一部放送された 1940年鉄道省 製作映画(機関車物語)です。その中で併走場面こそありませんが、10m程の距離を保って同速度で走りながら 後方を走る C57形蒸機の前面走行シーンを撮っています。
むしろ苦心したのは 機関室のセット製作と、実写では光量不足で不可能な 夜間走行シーンを ミニチュアで行った撮影だったそうです。

機関室のセット製作は 鉄道省に相談し 560kg以上に及ぶ本物の部品を借用して、それに耐えられる 厚いベニヤ板に取り付け 薄鉄板を被せたそうです。
焚口内部は トタン板の上にレンガを積み、外部は木材の骨組みに ベニヤ板の上にトタン板を張って ペンキ3回塗りの上に 煤を押さえて実感を出したそうです。
組立には 大宮工場から 専門家に来てもらい、監修の上に 製作したそうです。このセットは自由に方向転換が可能で 送風機で風・雨・吹雪を再現し、前後左右からスクリーンプロセスで 実写に迫る 臨場感ある作品に 出来上がっています。
一方 C58形蒸機のミニチュアは 当初22分の1模型を 5月頃から製作しようとしましたが、予算を遥かにオーバーしそうなので 鉄道博物館に陳列されている10分の1模型を お願いして借りたそうです。
車内燈付きの木製客車を作り 家屋は15分の1で 各種ジオラマを製作し、9月1日に C58の模型を借り出して 細いワイヤーを巻取り式に引っ張って 動かしたそうです。
(参考:映画技術 1941年11・12月号)
佐川の所属は 鉄道第二連隊と思われ、4枚目の画像で 佐川が乗り込む駅は 津田沼と思われます。
12~15枚目の画像で紹介する 併走シーンは、総武本線佐倉駅を過ぎて 総武本線と成田線が3㎞程に渡って並走する区間で 何度も撮り直して 迫力ある作品へと仕上げています。
上記(機関車物語)の撮影も この区間で撮影されたと思われ、本作の前年に製作されているので 参考資料や撮影方法の意見を頂けたのでは・・・
13枚目の画像は キャブの下に鉄材で組んだ 吊り下げ式の台を作り、カメラを載せて 撮影しています。
続く画像は 炭水車の上でカメラを構えて、両方の蒸機が 併走から別れ行く 迫力あるシーンを見事に捉えています。
それまでの佐倉駅での 出征兵士見送り場面 撮影部分から、何故か一転して 21枚目の画像から 千葉機関区横からの見送りシーンへと 移っています。 去り行く列車の手前には、キハ41000形らしき気動車がいます。
23枚目の画像で 瀬木と田町が客車に駆け寄り 佐川と草野を探すシーンで映っている客車は、ターンバックルも厳つい 木造二重屋根の ホハ12000形客車です。
最後の見送りシーンは 桁外れに大勢の エキストラを動員して感動させ、ラストシーンでは 一転して 仲の悪い瀬木と田町が 師弟愛を表現しつつ 喜劇映画の様な絡み合いで エンドマークとなっている点が 並の国策映画と違うところでしょう。


