
1955年7月 大映 製作 公開 カラー作品 監督 島耕二
東北で生まれた 競走馬タケルは 小馬の頃山火事に遭遇したことから レース中に大きな音に反応してしまうが、白石次郎(岩垂幸彦)達の 懸命な対応で 日本ダービーの優勝へと至る 馬への深い愛情を描いた映画です。
八戸近郊の白石牧場で 生まれたタケルが 母馬千鳥と 山火事に遭遇した時、牧場主白石弥助(見明凡太郎)は 二頭を助けようとして 亡くなってしまいます。
白石の次男である次郎は 自分が名付けたので、タケルの世話を進んでやり 共に成長して行きます。
ある日 友達と遊んでいた次郎は タケルの餌やりを忘れていたことに気付き「大変だ~」と叫んで 戻る時に、八戸線の 8620型蒸機牽引貨物列車が 目前を走り抜けて行きます。

その後 長女の雪江(若尾文子)が引き継いだ白石牧場の経営は苦しくなり、千鳥は運送業者に売られ タケルも東京の石川厩舎へと 行く事になりました。
タケル出発の日 騎手志望の長男一郎(遊佐晃彦)も 同行することになり、最寄り駅 貨物ホームから 一郎に牽かれて タケルはワム4503有蓋車へ乗りました。



雪江は 東京での注意事項を 一郎に伝え、別れの辛さに涙ぐむ 次郎をなだめています。タケルも次郎との 別れが寂しいのか、大きく嘶きました。

すると前方から 別の馬の嘶きが聞こえると 次郎は「千鳥だ!」と言って 聞こえた方に走って行き、鳴いていたのが 千鳥だと確認すると 雪江達も駆けつけます。

同時に列車は動き出し 次郎は列車の横を走りながら、タケルとの別れを 涙ながらに惜しみます。



そして一同は 列車が見えなくなるまで 手を振って、タケルと一郎を見送るのでした。

上京したタケルは 調教では 抜群の走りを見せますが、レースデビューすると 大きな音に反応したのか 騎手を振り落としたり コースを突然外れてしまいます。
そこで一郎は 調教師と相談して 大きな音に慣れさせる為、東京中の騒音ポイントに 車に乗せて連れて行きます。東海道本線の EF58形電機牽引列車が通る、ガード下でも 騒音慣れ訓練が 行われました。

そして 漸く騒音にも慣れて、順調にレースにも 勝てる様になりました。ところが皐月賞に勝った後 厩舎の一角から火事となり、タケルは山火事での 怖い思いが蘇ったのか 飼い葉を食べなくなってしまいます。
雪江の元へ タケルの不調を知らせる 電報が届くと、配達人は「母馬千鳥に 逢わせてやるのが一番なんだが」と言います。それを聞いた次郎は 友達の所へ急ぎますが、バックに八戸線の 混合列車が映っています。

急遽 雪江が上京することになり 父親の墓に挨拶して 駅へ向かう場面では、美しい太平洋をバックに 迫り来る混合列車が映っています。

次郎は行けなかったのですが 仲良しの保(千葉直志)から、父 大西平五郎(柳永二郎)が上京するので 連れていってもらえると聞いて 大喜びです。
高速で走り来る 蒸機牽引客車が映り、セットらしき車内では 次郎と保が並んで座っています。

すると 突然次郎が「千鳥だ」と言って、窓を開けて 顔を出して見ますが ハッキリしません。向かい席の大西は「東京で次郎君が タケルに会えば元気になるよ」と言って、次郎を励ますのでした。

夜遅く 石川厩舎に着いた次郎は タケルに子馬の頃から聞かせた ハーモニカを吹くと、タケルは飼い葉を食べる様になり 元気回復で 翌日のダービーで見事に優勝しますが・・・
PS.
島監督は 八戸線の汽車を かなり意識していた様で、1・12・13枚目の画像等は 蒸機牽引列車の 通過時刻に合わせて撮影しています。(当時種差駅を通る、旅客列車12往復中 6本は気動車)
当時の八戸線では 尻内区の8620形蒸機が 貨物列車と混合列車を 牽いていましたが、尻内~鮫の区間列車を主に 旅客列車 全23往復中 6割が気動車でした。
2枚目からの タケル送り出し場面は、種差駅貨物ホームで 撮影が行われたそうです。(現:種差海岸駅)次の画像では 種差駅舎が映っていて、旅客用ホームは 別にありました。

大西親子と次郎が 上京した行程を 妄想すると、種差 6:28 ―(612レ)― 7:07 尻内 7:12 ―(202レ急行みちのく)― 19:25上野 ―(山手線8分)― 東京 ―(中央線54分)― 国分寺 ―(中央線 競馬場支線13分)― 20:45頃 東京競馬場前
当初島監督は 北海道日高の牧場へ ロケハンに行きましたが 牧場のスケールが 大き過ぎて構想に合わず、帰りに寄った 八戸市鮫にある 大平牧場をロケ地に選んだそうです。
1955年4月20日 総勢70人の ロケ隊で乗り込み 種差駅近くの 鷗鳴館を宿として、主家・厩舎2棟のセットを20人で作り 山火事場面は七戸でロケを行ったそうです。
長者山神社境内で行われた ポロに似た 打球のロケでは、若尾文子登場と 地元新聞が予告したので近郊近在から 2万余の群衆が集まったとか。
白石一郎役は 乗馬シーンがある為 少年騎手である 遊佐晃彦に依頼し、日本中央競馬會協力の元 レース再現シーンでは ヘリからの空撮や レーシングカーを併走させての 撮影を行ったそうです。
(参考:山と渓谷社刊 ハイカー1955年7月号)
大映社長であった 永田雅一の持ち馬 トキノミノルが 1951年のダービー優勝後に 急死した事を悼み 製作されましたが、純粋に愛馬精神に満たされた 作品です。
当時大映が使ったイーストマン・カラー映像は 明るく美しく、現在残るソフトで 松竹作品等と比べると 明るさの違いは歴然ですね。
東北で生まれた 競走馬タケルは 小馬の頃山火事に遭遇したことから レース中に大きな音に反応してしまうが、白石次郎(岩垂幸彦)達の 懸命な対応で 日本ダービーの優勝へと至る 馬への深い愛情を描いた映画です。
八戸近郊の白石牧場で 生まれたタケルが 母馬千鳥と 山火事に遭遇した時、牧場主白石弥助(見明凡太郎)は 二頭を助けようとして 亡くなってしまいます。
白石の次男である次郎は 自分が名付けたので、タケルの世話を進んでやり 共に成長して行きます。
ある日 友達と遊んでいた次郎は タケルの餌やりを忘れていたことに気付き「大変だ~」と叫んで 戻る時に、八戸線の 8620型蒸機牽引貨物列車が 目前を走り抜けて行きます。

その後 長女の雪江(若尾文子)が引き継いだ白石牧場の経営は苦しくなり、千鳥は運送業者に売られ タケルも東京の石川厩舎へと 行く事になりました。
タケル出発の日 騎手志望の長男一郎(遊佐晃彦)も 同行することになり、最寄り駅 貨物ホームから 一郎に牽かれて タケルはワム4503有蓋車へ乗りました。



雪江は 東京での注意事項を 一郎に伝え、別れの辛さに涙ぐむ 次郎をなだめています。タケルも次郎との 別れが寂しいのか、大きく嘶きました。

すると前方から 別の馬の嘶きが聞こえると 次郎は「千鳥だ!」と言って 聞こえた方に走って行き、鳴いていたのが 千鳥だと確認すると 雪江達も駆けつけます。

同時に列車は動き出し 次郎は列車の横を走りながら、タケルとの別れを 涙ながらに惜しみます。



そして一同は 列車が見えなくなるまで 手を振って、タケルと一郎を見送るのでした。

上京したタケルは 調教では 抜群の走りを見せますが、レースデビューすると 大きな音に反応したのか 騎手を振り落としたり コースを突然外れてしまいます。
そこで一郎は 調教師と相談して 大きな音に慣れさせる為、東京中の騒音ポイントに 車に乗せて連れて行きます。東海道本線の EF58形電機牽引列車が通る、ガード下でも 騒音慣れ訓練が 行われました。

そして 漸く騒音にも慣れて、順調にレースにも 勝てる様になりました。ところが皐月賞に勝った後 厩舎の一角から火事となり、タケルは山火事での 怖い思いが蘇ったのか 飼い葉を食べなくなってしまいます。
雪江の元へ タケルの不調を知らせる 電報が届くと、配達人は「母馬千鳥に 逢わせてやるのが一番なんだが」と言います。それを聞いた次郎は 友達の所へ急ぎますが、バックに八戸線の 混合列車が映っています。

急遽 雪江が上京することになり 父親の墓に挨拶して 駅へ向かう場面では、美しい太平洋をバックに 迫り来る混合列車が映っています。

次郎は行けなかったのですが 仲良しの保(千葉直志)から、父 大西平五郎(柳永二郎)が上京するので 連れていってもらえると聞いて 大喜びです。
高速で走り来る 蒸機牽引客車が映り、セットらしき車内では 次郎と保が並んで座っています。

すると 突然次郎が「千鳥だ」と言って、窓を開けて 顔を出して見ますが ハッキリしません。向かい席の大西は「東京で次郎君が タケルに会えば元気になるよ」と言って、次郎を励ますのでした。

夜遅く 石川厩舎に着いた次郎は タケルに子馬の頃から聞かせた ハーモニカを吹くと、タケルは飼い葉を食べる様になり 元気回復で 翌日のダービーで見事に優勝しますが・・・
PS.
島監督は 八戸線の汽車を かなり意識していた様で、1・12・13枚目の画像等は 蒸機牽引列車の 通過時刻に合わせて撮影しています。(当時種差駅を通る、旅客列車12往復中 6本は気動車)
当時の八戸線では 尻内区の8620形蒸機が 貨物列車と混合列車を 牽いていましたが、尻内~鮫の区間列車を主に 旅客列車 全23往復中 6割が気動車でした。
2枚目からの タケル送り出し場面は、種差駅貨物ホームで 撮影が行われたそうです。(現:種差海岸駅)次の画像では 種差駅舎が映っていて、旅客用ホームは 別にありました。

大西親子と次郎が 上京した行程を 妄想すると、種差 6:28 ―(612レ)― 7:07 尻内 7:12 ―(202レ急行みちのく)― 19:25上野 ―(山手線8分)― 東京 ―(中央線54分)― 国分寺 ―(中央線 競馬場支線13分)― 20:45頃 東京競馬場前
当初島監督は 北海道日高の牧場へ ロケハンに行きましたが 牧場のスケールが 大き過ぎて構想に合わず、帰りに寄った 八戸市鮫にある 大平牧場をロケ地に選んだそうです。
1955年4月20日 総勢70人の ロケ隊で乗り込み 種差駅近くの 鷗鳴館を宿として、主家・厩舎2棟のセットを20人で作り 山火事場面は七戸でロケを行ったそうです。
長者山神社境内で行われた ポロに似た 打球のロケでは、若尾文子登場と 地元新聞が予告したので近郊近在から 2万余の群衆が集まったとか。
白石一郎役は 乗馬シーンがある為 少年騎手である 遊佐晃彦に依頼し、日本中央競馬會協力の元 レース再現シーンでは ヘリからの空撮や レーシングカーを併走させての 撮影を行ったそうです。
(参考:山と渓谷社刊 ハイカー1955年7月号)
大映社長であった 永田雅一の持ち馬 トキノミノルが 1951年のダービー優勝後に 急死した事を悼み 製作されましたが、純粋に愛馬精神に満たされた 作品です。
当時大映が使ったイーストマン・カラー映像は 明るく美しく、現在残るソフトで 松竹作品等と比べると 明るさの違いは歴然ですね。


