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日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

392.幻の馬

1955年7月 大映 製作 公開  カラー作品   監督 島耕二

東北で生まれた 競走馬タケルは 小馬の頃山火事に遭遇したことから レース中に大きな音に反応してしまうが、白石次郎(岩垂幸彦)達の 懸命な対応で 日本ダービーの優勝へと至る 馬への深い愛情を描いた映画です。

八戸近郊の白石牧場で 生まれたタケルが 母馬千鳥と 山火事に遭遇した時、牧場主白石弥助(見明凡太郎)は 二頭を助けようとして 亡くなってしまいます。
白石の次男である次郎は 自分が名付けたので、タケルの世話を進んでやり 共に成長して行きます。

ある日 友達と遊んでいた次郎は タケルの餌やりを忘れていたことに気付き「大変だ~」と叫んで 戻る時に、八戸線の 8620型蒸機牽引貨物列車が 目前を走り抜けて行きます。
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その後 長女の雪江(若尾文子)が引き継いだ白石牧場の経営は苦しくなり、千鳥は運送業者に売られ タケルも東京の石川厩舎へと 行く事になりました。
タケル出発の日 騎手志望の長男一郎(遊佐晃彦)も 同行することになり、最寄り駅 貨物ホームから 一郎に牽かれて タケルはワム4503有蓋車へ乗りました。
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雪江は 東京での注意事項を 一郎に伝え、別れの辛さに涙ぐむ 次郎をなだめています。タケルも次郎との 別れが寂しいのか、大きく嘶きました。
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すると前方から 別の馬の嘶きが聞こえると 次郎は「千鳥だ!」と言って 聞こえた方に走って行き、鳴いていたのが 千鳥だと確認すると 雪江達も駆けつけます。
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同時に列車は動き出し 次郎は列車の横を走りながら、タケルとの別れを 涙ながらに惜しみます。
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そして一同は 列車が見えなくなるまで 手を振って、タケルと一郎を見送るのでした。
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上京したタケルは 調教では 抜群の走りを見せますが、レースデビューすると 大きな音に反応したのか 騎手を振り落としたり コースを突然外れてしまいます。
そこで一郎は 調教師と相談して 大きな音に慣れさせる為、東京中の騒音ポイントに 車に乗せて連れて行きます。東海道本線の EF58形電機牽引列車が通る、ガード下でも 騒音慣れ訓練が 行われました。
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そして 漸く騒音にも慣れて、順調にレースにも 勝てる様になりました。ところが皐月賞に勝った後 厩舎の一角から火事となり、タケルは山火事での 怖い思いが蘇ったのか 飼い葉を食べなくなってしまいます。

雪江の元へ タケルの不調を知らせる 電報が届くと、配達人は「母馬千鳥に 逢わせてやるのが一番なんだが」と言います。それを聞いた次郎は 友達の所へ急ぎますが、バックに八戸線の 混合列車が映っています。
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急遽 雪江が上京することになり 父親の墓に挨拶して 駅へ向かう場面では、美しい太平洋をバックに 迫り来る混合列車が映っています。
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次郎は行けなかったのですが 仲良しの保(千葉直志)から、父 大西平五郎(柳永二郎)が上京するので 連れていってもらえると聞いて 大喜びです。
高速で走り来る 蒸機牽引客車が映り、セットらしき車内では 次郎と保が並んで座っています。
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すると 突然次郎が「千鳥だ」と言って、窓を開けて 顔を出して見ますが ハッキリしません。向かい席の大西は「東京で次郎君が タケルに会えば元気になるよ」と言って、次郎を励ますのでした。
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夜遅く 石川厩舎に着いた次郎は タケルに子馬の頃から聞かせた ハーモニカを吹くと、タケルは飼い葉を食べる様になり 元気回復で 翌日のダービーで見事に優勝しますが・・・






PS.
  島監督は 八戸線の汽車を かなり意識していた様で、1・12・13枚目の画像等は 蒸機牽引列車の 通過時刻に合わせて撮影しています。(当時種差駅を通る、旅客列車12往復中 6本は気動車)
  当時の八戸線では 尻内区の8620形蒸機が 貨物列車と混合列車を 牽いていましたが、尻内~鮫の区間列車を主に 旅客列車 全23往復中 6割が気動車でした。

  2枚目からの タケル送り出し場面は、種差駅貨物ホームで 撮影が行われたそうです。(現:種差海岸駅)次の画像では 種差駅舎が映っていて、旅客用ホームは 別にありました。
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  大西親子と次郎が 上京した行程を 妄想すると、種差 6:28 ―(612レ)― 7:07 尻内 7:12 ―(202レ急行みちのく)― 19:25上野 ―(山手線8分)― 東京 ―(中央線54分)― 国分寺 ―(中央線 競馬場支線13分)― 20:45頃 東京競馬場前



  当初島監督は 北海道日高の牧場へ ロケハンに行きましたが 牧場のスケールが 大き過ぎて構想に合わず、帰りに寄った 八戸市鮫にある 大平牧場をロケ地に選んだそうです。
  1955年4月20日 総勢70人の ロケ隊で乗り込み 種差駅近くの 鷗鳴館を宿として、主家・厩舎2棟のセットを20人で作り 山火事場面は七戸でロケを行ったそうです。

  長者山神社境内で行われた ポロに似た 打球のロケでは、若尾文子登場と 地元新聞が予告したので近郊近在から 2万余の群衆が集まったとか。
  白石一郎役は 乗馬シーンがある為 少年騎手である 遊佐晃彦に依頼し、日本中央競馬會協力の元 レース再現シーンでは ヘリからの空撮や レーシングカーを併走させての 撮影を行ったそうです。
   (参考:山と渓谷社刊 ハイカー1955年7月号)


  大映社長であった 永田雅一の持ち馬 トキノミノルが 1951年のダービー優勝後に 急死した事を悼み 製作されましたが、純粋に愛馬精神に満たされた 作品です。
  当時大映が使ったイーストマン・カラー映像は 明るく美しく、現在残るソフトで 松竹作品等と比べると 明るさの違いは歴然ですね。

  



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