fc2ブログ

日本映画の鉄道シーンを語る

日本映画における鉄道が登場する場面(特に昭和20~40年代の鉄道黄金期)を作品毎に解説するブログ

305. 典子は、今

1981年10月  東宝 配給 公開   キネマ東京・シバタフィルムプロ 製作    カラー作品   監督 松山善三

サリドマイド児として生まれた松原典子(辻典子・現 白井のり子)が 母親 春江(渡辺美佐子)と共に 試練を乗り越え公務員となり、社会人としての独り立ちを目指す 苦難の青春期迄を描いたセミ・ドキュメンタリータッチの映画です。

冒頭 鹿児島本線熊本駅へ到着する、481系特急有明号らしきの姿が映ります。
900-0-1.jpg
続いて典子の通う高校のクラスでは スピーチ会が行われ、下校時 熊本市電らしきに学友と乗って 進路について話す皆の姿が映るシーンへと続きます。
900-0-2.jpg
母親と将来について話した次の朝でしょうか、雨が激しく降る中 熊本電鉄のモハ122 藤崎宮行が駅に到着します。
900-0-3.jpg
ここ黒髪町駅で大勢の高校生に混じって、典子は学友の傘に入れてもらいながら 降りて来ました。
900-2.jpg

当初 大学進学を希望していた典子ですが 年老いて行く母親の姿に公務員を目指す様になり、先生が家庭訪問して 熊本市役所受験の説明をしてくれます。翌朝から一人で早起きして 決意を示す姿が映る時、早朝に熊本市電 2系統1350形 1354の走行シーンが映ります。
900-10.jpg
その後 皆の協力もあって、校長先生から市役所合格の電話が 典子の元にありました。典子は大喜びで母親に知らせるべく、熊本市電の専用線区間らしきを 近道して1200形1205とすれ違いながら蓮根工場へと走ります。
900-12.jpg

熊本市役所ではそつなく仕事をこなす典子でしたが、どうしても他人の世話になる場面を経験します。この辛い経験を予期する様に、雷が鳴る薄暗い空の下を熊本電鉄の電車が走ります。900-26.jpg
典子はこの経験から 自立することを目指して、広島の阿多田島にいる 文通相手の所への一人旅を思い立ちます。
反対する母親を説得し、バックを肩から下げて熊本駅へ向かいます。出札口に並ぶ人に「すみません、広島の大竹まで切符を買って下さい」と頼み、「博多まで特急で徳山まで新幹線に乗って在来線で大竹まで」と説明して 切符購入を代行してもらいます。

熊本駅を出発し 身を捩る様に転線を重ねて走る、481系特急有明の姿を超望遠レンズで追い駆ける様に捉えるシーンへと続きます。
900-3.jpg
車内では車掌さんの検札が始まり、典子は緊張顔です。
900-5.jpg
やがて列車は博多駅4番ホームへ到着し、
900-6.jpg

900-7.jpg
降車する乗客に混じって典子も降りて来ました。
900-8.jpg
続いて新幹線の進行逆向き3列シートの真ん中に典子は座っています。これは丁度公開年から投入された 新造の0系新幹線2000番台から採用された 集団離反型シートです。母親から「どうやって弁当を買って食べるの!」と言われていましたが、窓側席の男性にサンドウィッチと缶ジュース購入を代行してもらい 更に食べさせてもらいます。
900-22.jpg

やがて新幹線は徳山駅へゆっくり到着し、7号車から典子が降りてくる姿をレンズは遠くから捉えています。
900-23.jpg
続いて山陽本線上り3番ホームで、乗換える115系電車らしきを迎える典子をレンズは追いかけています。
900-24.jpg
そして大時計が16:45を指す頃典子は漸く大竹駅へ到着し、
900-25.jpg
目的地阿多田島への行き方を尋ねてタクシー乗り場へ向かうのでした。







PS. 

 本作の序盤と中盤に数々の苦難が続いた 典子の生い立ちの過程が紹介され、何にでも積極的に挑み続けた故に 器用に両足を使って何でもこなす 現在の姿を描いています。特にミシンに糸を通す場面には、鑑賞当時 場内から驚きの声が聞こえたのが想い出です。
 さて 雨の熊本電鉄黒髪町駅に モハ121形が到着する場面ですが、この車輛は1931年汽車製造・東京支店製の元 南武鉄道100形で 1956年に国鉄から譲渡され1985年まで走っていました。

 熊本市役所合格の知らせを一刻も早く母親に知らせたく 熊本市電の専用線区間の線路内を走るシーンは、現在のB系統(上熊本~健軍町)新町~塩屋町〔現 洗馬橋停留所〕の専用線区間でしょうか。この1200形 1205も前出の1350形 1354も、共に現役で活躍しているそうで嬉しい限りですね。

 481系特急有明は当時18往復もあって、典子が乗った4号は3本しかない 熊本~博多ノンストップ特急でした。それが現在では平日の朝に、大牟田~博多の上り片道1本しか存在しかないのです。
 典子の行程を当時の時刻表(不正確部分を含む)で再現すると、熊本7:44―(1004M特急有明4号)―9:14博多11:56―(ひかり118号)―13:11徳山14:06―(快速3122M)―・・・(552M)-16:44大竹着

 本来なら有明4号で博多に着けば、9:56発のこだま402号に乗り継ぎ11:11に徳山へ着きます。ところがこれだと 車内で昼食と合いませんので 上記の様に2時間後の列車と思われます。
 更に徳山14:06発の3122Mに乗ると、15:14に大竹に着きます。どこかで途中下車して552Mに乗り継ぎ 16:44着なのか? これは午後便には間に合わず、夕方の阿多田島への船便(現在なら17:15発⇒17:50着)を考えてのことだと思われます。
 作中では 夕方前に阿多田島へ到着しているので 敢えて推理すると、有明4号で博多へ9:14に着くと 9:56発のこだま402号に乗り継ぎ 11:49広島着(車内で早目の昼食)山陽本線下り12:21発―(快速313M)―12:59大竹着 連絡線(現在なら14:40発⇒15:15着)の午後便を利用すれば本編と合致します。

 熊本駅から大竹駅を降りるまで 車内以外では本人に録音機を持たせ、離れた位置から撮影して ドキュメンタリー風の仕上がりを 松山監督は狙った様です。(かなり冒険的な撮影ですが・・・)
 本作は身体障害者本人に演じてもらうという 思い切った発想で製作されました。助監督として演技指導に当たった 高峰秀子は当時既に女優を引退していましたが、監督の妻でもあり 典子さんと二人三脚で困難な撮影を成功に導いたと思われます。


 小生 本作を公開の翌年に 東京の飯田橋佳作座か早稲田松竹で観て感動した記憶があります。同時上映か同時期に観た「震える舌・1980年 監督 野村芳太郎」も強烈な印象に残っていますが、この作品の主演とも言える 昌子を演じた若命真裕子の怪演が印象的でした。今回調べる内に 少女期の典子を演じたのが、同じ若命真裕子と分かって驚きました。

PageTop